檀一雄のエッセイ
檀一雄は檀ふみの父親である。こう言えば、少し調べてみようか、と思う人もいるだろう。こう書いている私は、檀一雄を知らなかった。檀ふみの父親とネットで知ったのは今から11年前のことである。そして11年前のある日、練馬区ふるさと文化館に赴いた。そこに檀一雄閲覧コーナーがあるからである。
そこで、檀一雄が無頼派の私小説作家であることを知る。『火宅の人』の初版本を見る。後日、その『火宅の人』を読んで、「ああ、これは檀一雄の不倫を題材にしたのだなあ」と思った。瀬戸内寂聴と同様に自分の愛欲を題材にしたのである。なかなかできることではない。
檀ふみは独身だという。愛人を自宅に連れ込むような父親であったようだから、心理的虐待を受けていたのかもしれない。家は嫉妬などの炎で焼やれていたのだろう。
そう思うと、檀ふみが家庭を持とうとしなかったのが解るような気もする。もちろん、これは私の邪推なのだが。
横道にそれた。檀一雄の話に戻る。
彼は、晩年『娘たちへの手紙』というエッセイを書いている。これが秀逸である。わたしは、このエッセイ一つで檀一雄が好きになった。いや、この短いエッセイは大作と言っていい。
『娘たちへの手紙』から引用する。
マイ- ホームというような幸福の規格品があって、それを、デパートで買うような気になったら、めいめいに与えられている命の素材が泣くだろう。敗れても、自分自身の造物主であり、地にまみれても、自分自身の神ではないか。やがて、滅びるに決まっているから、自分の心と体を、絶えず誘導し、向上させ、美しく保持しなければならないだろう。
上の言葉を、私は何度反芻したことだろう。
生命の素材を磨くのは、親でもなければ学校でもない。最大の教育者は自分自身だ。凡そ、こう言い切るのである。
これは、娘たちへの手紙であると同時に、自分自身への手紙でもある。別言すれば、読者は娘であると同時に自己内の読者でもあった。