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田中さん(仮名)の親切

その日の図工は、毛糸、端切れ布を持ってくることになっていた。私はうっかり忘れて、新聞紙を机の上に載せ、じっとしていた。

日直による号令で授業が始まった。先生は、
「机の上にお家から持ってきたものを置きなさい。」
と指示した。

その瞬間、左隣席の田中さんが、誰にも分からないような手つきで、私の机上に毛糸巻と端切れ布を置いてくれたのである。

見よがしに親切にする人はいるだろう。が、田中さんは先生にも、級友にも気づかれないよう、そっと置いてくれたのだった。

その田中さんが2学期の中頃、転校することになった。お父さんは警察官らしかった。転勤で熊本に引っ越すと聞いた。静かな表情、口数は少なかったが、大人びた目付き、髪をポニーテールに結んだ颯爽とした姿を思い出す。

その田中さんがお別れの挨拶をする時、私は何度も何度も、心の中で「ありがとう」を言っていた。

後年、大学に入り、「キリスト教概論①」を履修した。トルストイの『イワンの馬鹿』から課題が出された。

提出したレポートに、「見えないよう、分からないよう親切にするイワンの姿は珍しいことであるかもしれない。が、珍しいからこそ美しいのだ。」というようなことを書いた記憶がある。

トルストイの小説を読む度に、転校して行った田中さんのポニーテールの黒髪を思い出す。

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