2024/8/21 戦いの前に
今、我が子が、死の淵にいる。
そして、今日、8/21の午後、一世一代の大勝負に挑む。
回復を願いながら、それでも、冷静に振り返ることは今しかできないかもしれないとも思い、今これを書いている。書くことで、落ち着かない気持ちを、少しでも消化しようとしている。
side妻はこちら。
発症、付き添い、大喧嘩
事の始まりは4月。
極めて健康体だったが我が子が、突然の高熱と、見たこと無い形の全身発疹を発症。慌てて病院に連れていくと川崎病との診断され、付き添い入院生活がスタート。諸事情により妻ではなく日下が付き添う。
心身の体力と有給を大量に消費して病みかけつつ、約2週間の治療で退院できたものの、中2日で肝炎を発症し、5月初旬に救急搬送&再入院。数日後、肝臓の値が落ち着くどころか急上昇し、大学病院へ緊急転院。ありがたいことに前病院よりルールが緩和されており、妻と日替わりで付き添い交代できるようになる。
その後いまいち治りきらず、カテーテル感染などの今思えば些末なトラブルを経て、川崎病治療薬の副作用と思われる腸炎を発症。飲まず食わずと一日10回以上の下痢が1週間以上続く。重度のお尻かぶれになってしまい、朝から晩まで子のお尻に亜鉛軟膏を塗る。唇が川崎病の影響で腫れてしまうので、ワセリンを塗りたくる。1日3回、必死で薬を飲ませ、歯磨きをする。目やにもひどいから、泣き叫ぶ我が子を抑えて目薬をさす。
子は点滴で自由に動けず、散歩に行きたくてストレスフル。かといって体調が悪くて自分で歩く元気も無い。「ダッコ!」「アッチ!」の2語で、ヒップシートで抱っこしながらの病棟散歩を要求される。重たい点滴を引きずりながら、バッテリー切れのビープ音に怯えながら、腰痛に苦しみながらの無限散歩が続く。途中ベビーカーに乗ってくれるようになったので若干楽になったが、ほとんど運動もできていないので寝付きも悪く、付き添いの日は深夜までひたすら散歩し、次の日は早起きして出社する。
大体この頃、一時期密着取材されていたドキュメンタリーが放送された。家で皆で見る予定だったがそうもいかないので、寝かしつけついでにTverで見てみたら、会ったこともない編集者に嫌われていたのか、私は良いところが無く妻に文句を言う悪役として登場していた。
このあたりで心身疲労が2回目のピークを迎える。
妻とも育児というか、人生で何を優先するかというか、諸々の価値観をめぐり大喧嘩。もし離婚したら、我が子にとってどういう形がベストだろうか、なんてシミュレーションをしながらギリギリの所で耐え凌ぐ。
その後、薬を変えてやや腸の状態も回復。お尻かぶれもすっかり治る。病院の妻から我が子が1週間ぶりにご飯を食べる動画が送られてきて、会社でちょっと泣く。このまま行けるか、と思ったが、数日後、寝かしつけの際に明らかに体温が高く、体温計を手に取ると、過去最高40℃を記録していた。
ダメ押しの治療として、血漿交換と呼ばれる全身麻酔をかけての治療をするため、6月14日にICU(4日間の予定)へ。
この日から今日まで、我が子はずっとICUにいる。
ICUへ
ICUでは付き添い入院が出来ず、毎日30分だけの面会になる。
身体的な負担は減って、精神的な負担は、馬鹿みたいに増えた。
幸か不幸か、我が子は基本的に麻酔で眠っているから、本人はそんなに寂しくない、と、思う。
もしかすると、宇宙兄弟のシャロン博士のように、動けない身体で意識だけははっきりして、呼吸を機械で制御されて、苦しくて不安な日々を送っているのかもしれない。もしそうだとしたら、この先の人生を賭けて「頑張ったね」と「ごめんね」を伝えていこうと思う。
血漿交換は無事終えたものの、その直後に肺炎を発症。あっという間に悪化し、人工呼吸器でも呼吸の維持が難しくなってしまう。エクモと呼ばれる人工心肺を装着し、肺を休める必要があると告げられた。
ここで初めて、命の話が出た。
今まで頭をよぎっても口にしないようにしていたが、ついに、言葉になってしまった。
エクモは装着するだけで合併症リスクがあることを説明される。片方の首の血管を使ってしまうから、脳へ血が回らない可能性があるとか、血栓ができるリスクが高いとか、血をサラサラにする薬を使うから内出血したら止まらないとか、どれ一つとっても、起きてしまったら命に関わるとか。付けていられるにしても2週間が目安で、そこで回復しなかったら、他に手がないとか。
嫌な話しか聞こえなくて、重くなる気持ちと裏腹に、それでも他に選択肢がないのだから軽やかに同意書に名前を書いて、6月20日、エクモが装着された。
2歳の誕生日はICUで、昏睡したまま迎えた。
どんぐり王国で買った、我が子にピッタリな、大好きな中トトロを模した青い帽子と、大好きなシャボン玉のセット(しかもトトロがシャボン玉を吹いているデザイン)。
誕生日プレゼントは、まだあの子に見せられていない。
先生たちがベッドサイドにきてくれたので、今日が誕生日であることを伝えたら目頭を押さえていた。我々とは比べものにならないくらい死が身近な世界に生きていて、患者の容態が回復しないことにも何も感じなくても不思議ではないのに泣いてくれる、この先生で良かったな、と思った。
生きた心地がしない日々の中で、エクモは幸いなことに合併症なく運転し続けた。
その間に、気管切開の話が出た。呼吸器を付けたまま意識を戻したり、食事を取れるようにするために、首の骨に穴を開け、首から人工呼吸器の管を挿入する。回復すれば外せるが、人によっては一生人工呼吸器を携えて生きることになる。色々な未来の可能性が脳裏を駆け巡るが、まずは生き延びることを考えようと、同意書にサインをする。
気管切開をする前提で、手術前日に事前説明を受ける。
次の日、先生から「順調に回復しているから、気管切開をキャンセルして人工呼吸器を外す方向で進めましょう」と言われる。本当に、嬉しかった。
抜管成功
呼吸器を外すと同時に、回復に向けて麻酔を抜いていくことになる。
その後数日は、麻酔の離脱症状による発熱や手の震え、わずかに開いた焦点の合わない目など、寝ているときより痛々しくも見える我が子の手を握った。
面会のたびに麻酔の量をチェックして「このペースならあと2周間で0になりそうだね」なんて妻と話しながら、我が子に「あとちょっとだよ」と話しかける。
「あとちょっとだよ」をもう、一生分使って、来世の分まで前借りしてしまったような気がする。今日も眠る我が子に「あとちょっとだよ、絶対治るよ」と話しかけた。再来世くらいまで使えなくていいから、今世はめいいっぱい使わせてほしい。
この頃から、自分も心臓の痛みを感じるようになった。近場の内科で思い当たる理由を聞かれたので、今置かれている状況をありのまま話す。「エクモ」という言葉を使った途端に医師の顔色が変わり「大丈夫なの?」と聞かれる。メンタルを乱さないためにエクモの詳細を調べるのはやめていたから、思っていたより緊急事態だったんだな、と知る。
痛みの理由はストレスと診断され、余計ストレスが増えそうなクソ苦い漢方薬をもらった。
「ICUのベッド数が逼迫していて、ICUの患者の中ではもう重症度が低いから、明日にでも病棟に戻ってもらうかもしれない」なんて話も受け、希望に満ちて、油断していた日。携帯をデスクに忘れ、打ち合わせから戻った後に携帯を見ると、病院からの不在着信と妻からのラインが入っていた。
3文字だけ「再挿管」と書いてあった。
再び、エクモ
病院に行って、先生からの説明を受ける。もう数ヶ月の付き合いだから、最初の一言目の雰囲気や表情で、状況が良くないことはわかる。
告げられたのは、このままではまたエクモの再装着になること。前回装着時は酸素が取り込めないのが主訴だったが、今回はCO2が排出できないのが問題であること。2回目の装着になる分、リスクも高いこと。根本原因も様々な検査をしても未だ見つからず、治る保証もないこと。
「ご家族の希望によっては、積極的な治療を取りやめて家族の時間を増やすのも手」と言われる。
ああ、今はそんな状況なのか。
震える声で「生き残る前提での治療をお願いします」と返すのがやっとだった。
回復して、期待してしまっていた分、気持ちのダメージも大きかった。
このあたりで、自分のメンタルを守る上で「期待」は悪だと悟った。
回復は願うし、祈る。諦めもしない。だが、「いいニュースが聞けるはず」という期待はしない。
期待した分だけ、悪い結果が出たときにダメージが大きくなる。
とにかく心をニュートラルに、いい意味で不感症に、できるだけ根っこの感情を動かさずに、あらゆる事象を受け流そうとして、たまに受け流せなくて泣いたりしながら、今日までなんとか、生きている。
ただ、希望に満ちて期待し続けることもなんとなく大事だとも思う。毎日情報を共有する度に信心深い実家の家族が、期待に満ちた言葉を送ってくれているから、期待はそっちに任せることにした。
先生の言った「このまま」はあっという間に現実になって、エクモの再装着に至り、そのまま現在にも至る。
この間は、時間的には直近のはずなのに、あまり記憶がない。
せめて親の声が聞こえればと思い、スマホに入っている動画を全部つなぎ合わせたDVDを妻が作ったり、後述するように徳積みチャンスを伺ったりしていた。あとは、ひたすら病院からの電話に怯えていたような気がする。
誰がどう見て、どう感じるかわからないから、ものすごくぼかすが、仕事面でも大変いろいろな方にお世話になり、色々な配慮をいただいている。感謝しかない。
2回目のエクモ装着から2週間たち、肺炎はレントゲンで見る限り回復傾向。しかし、離脱テストをするとCO2濃度が上がってしまう。CO2濃度が高いと身体が酸性になり、身体が一定以上酸性になると、心臓が止まってしまう。病名は肺炎から呼吸器不全に変わっていた。
改めて「現状考えられる手は尽くしている状況。エクモ自体身体への負担が大きい中で、これ以上治療を続けるかどうか?」と確認される。合併症のリスクは日増しに高まるが、エクモ継続による回復の可能性は0ではないとのことなので、リスクを承知で更にエクモの延長を希望する。
我が子に負担を強いていることは間違いないが、生きてさえいれば、いくらでも埋め合わせはできる。
先週の盆休み中に、エクモ装着から4週間が経過した。離脱テストは失敗。
「これ以上エクモを継続しても回復の見込みはなく、合併症が生じるのを待つだけ、つまり死を待つだけになる」と告げられた。
いつの間にか、先生の説明が、死の確率の方が圧倒的に高い前提に変わってていたり、病院へ通った回数は100回になろうとしていたり、7月の記憶が何もないのにお盆になっていたり、見覚えのない数字が積み重なっている。
最後の手段として、盆明けに「CO2濃度が高いままエクモを離脱し、酸性に傾く身体のPHを薬で中和する。そのままなんとか持ちこたえながら、気管切開までたどり着いて、呼吸管理をしやすくする、併せて麻酔を抜きながら、自発呼吸を回復させる」という治療を提案される。
一方で、次にエクモを離脱したら、全身状態を考えても3回目の装着は出来ない。離脱したら、もうどうなっても引き返せない。上手くいかなければ死期を早めるだけの結果になる。
今までの治療の経緯を考えたときに、理屈が通っているのかすら、よくわからなかった。
ただ、ICUに入ってから、特に「命」という言葉が出始めてから、我々の意向は一貫させてきた。
ここまで二人三脚でやってきたから、先生たちが結果的に読みを外したのなら、それは我々の連帯責任でもある。
(実際は先生は主治医の先生+4人のチームなので全部で14脚くらいあって、それに我々を加えて二人三脚算したら6人7脚とかになるけど、実際は毎日違う看護師さんが我が子のケアをしてくれて、それを踏まえると15人16脚とか、とにかくたくさんの人が関わってくれている)
科学的な部分は、最高の環境で最高の先生たちが、全身全霊を尽くしてくれている。自分たちにできることは、彼らが出してくれた案に、自らの責任で乗っかることだと思う。
提案を受けることにした。
徳を積む
非科学的な部分でも、何かできることはないかと思って、良いことをしよう、と思うようになった。
神様仏様的な何かが見ているかもしれないから、骨髄ドナーに登録したり、毎日の帰り道で、喫煙者に舌打ちしながらゴミ拾いをしたり、ホームレス支援のためにビッグイシューを買ったり、国境なき医師団に寄付をしたり。実家の宗教の作法に則って朝と夜に祈ったり。後は、我が子の回復を祈るのに虫を殺すのもおかしな話だと思ったから、蚊を見つけても放置した。俺の血でよかったら、持ってってくれ。
「我が子の回復のための徳積みチャンス」と認識することで人を助けることになんの抵抗も無くなった。荷物が重そうなお婆さんを、いつも探している。利他のチャンスを伺いながら、めちゃくちゃ利己的に生きている。
極めつけは、家から病院へ向かう電車が止まったので、急遽レンタカーを借りたときのこと。妻の発案で、タクシー乗り場の長蛇の列に向かい、我々と同じように困っていて、行き先が同じ方向の人を3人乗せ、最寄り駅まで送り届けたことがあった。
病院で重要事項の説明を受けないといけない男性、仕事に遅刻してしまいそうな女性、冷凍食品が溶けてしまいそうで困っているおばあさん。レディー二人が車の中で「こんないい人たちがいるなんて」と涙ぐみ、こっちも少し泣きそうになる。仕事に急ぐ女性が降り際に「きっと良いことありますよ!」と声をかけてくれた。良いこと、あるといいな。
我が子が治った後もこの「見せかけの利他」は続けていこうと思っている。
それをやっている親の姿は、結構かっこいいと思うから。
母から送られてきた信仰体験で「医学的にはかなり厳しい状況の中、必死に祈りを捧げて奇跡の回復をした人がいる。その主治医の先生曰く『医療でなんとかできるのは3割。後の7割は科学では解明できない本人の生命力だ』」と言っていた、と聞いた。
なら、祈って、徳を積んで、残りの7割を増やしてやろうじゃないか。運を引き寄せてやろうじゃないか。0.01%でも+に働くなら、なんでもやってやる。
実家の宗教の信者の方に状況を伝えるラインを送ると、その地区総出で祈ってくれるという。ほとんどが、知らない人ばかり。知らない人なのに、我々のために祈ってくれてる。その姿勢が、ありがたい。
そして、現在に至る。
今この瞬間も看護師さんが、必死に麻酔の管理や床ずれの防止などのケアをしてくれている。我が子は必死で生きようとしている。
一昨日、月曜にエクモの離脱予定だったが中止になった。
エクモで酸素交換をしているにも関わらず、この数日呼吸が乱れるタイミングが増えていること、その原因として、縦隔気腫と呼ばれる心臓付近での空気漏れが悪化している可能性が考えられることを告げられる。
この状況でエクモ離脱に踏み切ることが、本当に回復につながるのか。いたずらに死を招くだけではないか。ICUのチーム内でも全員で改めて検討したいという話があり、一日置いた結果、エクモの離脱が、今日、8/21の午後に決まった。
とのことだった。
明日、エクモを外す。もう後戻りはできない。
どこかでまだずっと先だと思っていた決断が迫ってきていることに気がついて、何も手につかなくて、仕事を休みにして、noteを描いている。
改めて時系列で書いてみると笑えるくらい時間とともに状況が悪くなっているが、諦めてはいないし、諦めることもない。どれだけ希望が小さくても、ファイティングポーズを取るのを、やめるつもりはない。親が諦めてられるか。絶対に、諦めてたまるか。
これは現実だ。小説みたいなハッピーエンドは約束されていない。確率論だけで行けば、相当厳しい戦いになるのかもしれない。だったら、「事実は小説より奇なり」を標語に採用する。
いきなり全快するなんて思わっていない。
例えば、気管切開をすると、声帯に空気がいかなくなるから、しばらくは喋れなくなる(いずれ回復してくれば抜くか、声帯に空気を送る管が使えるようになる)。あの子の可愛い声は、しばらく聞けなくなる。
まずは添い寝ができればいい。もう少し回復してきたら、抱っこができればいい。散歩のしすぎで、ギックリ腰になってもいい。一歩ずつ、階段を登るように、それが何段あったって、地道に回復すればいい。
我が子にとっても、多分僕たちにとっても、人生で一番の大勝負。
ここまできたら生き残ることに全部うまくいくことに、思い切り、期待する。
僕たちには何も出来ないから、必死で頑張っている我が子と「一緒に戦う」なんておこがましいけれど、せめて、頑張れをできるだけ近くで送れるように。
じゃあ、行ってきます。
追記) 12:00-13:00で処置前の面会が終了。
たくさんの「あとちょっとだよ」を伝えて、最後に「また後でね」で病室を後にした。
連絡があるまで、祈るのみ。
追記2)15:00にトラブル無く処置を終え、懸念のCO2濃度もなんとか踏みとどまってくれている。もちろんここからの経緯が大事。
けど、まずは第1試合、本当に頑張ってくれた。
続き。↓
この記事が参加している募集
\サポート募集中/ 日下秀之奨学金という 見知らぬ誰かに「給料の1%を毎月給付する」取り組みをしています。 基本的に出ていく一方なので(笑)、サポートいただけたら嬉しいです! いただいたお金は奨学金の原資だったり、僕がやる気を出すご褒美に使わせていただきます!