悲しみからとったダシがこれほどうまいとは 連載⑥
人の家に行くとどうしても本棚が気になってしまう。
その人が何を読み、どんな本と今までを共にして来たのかを知ることができれば、あとはもう大体のことが分かるのではないかと思う。
小学6年生のとき「月のふね」というとても好きな本があった。
作者は森絵都。
何回も借りては朝の読書の時間、繰り返し読んでいた。
その頃から学校という物が監獄であった私には、毎日の登校も、日々の勉強も、友達付き合いのどれもが苦痛でしかなく、毎日が憂鬱だった。
先生は刑務官。
脱獄という名の早退をしたって結局、翌朝にはまた戻されてしまう。
無限ループのような地獄。
面会に来てくれる親も私を助けるつもりは毛頭なく、私が更生してくれることを願っている。
私はいつだって囚人だった。
だから、そんな私にとって、読書と映画は少ない現実逃避の術だった。
本を読めば、どこにだって行ける。僅かな時間だが違う人間になれる。
だけど、本の中も、映画の中も、その中の登場人物になれるのはごく僅かで、夢はいつだっていつの間にか覚めている。
ある日の午後、もうだめだと思った。
ここでは生きていけないと思った。
だから、私はどこかへ行こう、と自転車に乗った。
でも、田舎の小学6年生のような小さな存在が自転車なんかに乗ったって、行けるところは限られている。
私は近所の河原に向かっていた。
電車に乗るとか、ヒッチハイクするとか、そんなことは小心者の私のこと。できるはずはなかった。
しかし、河原に行ったからって、どうにもならないことは、小さな私にだって分かっていた。・
だけど、そのときの私にとって河原は、水は、どこかに行ける、そんな希望を孕んだ場所だった。
河原は海と繋がっている。
そんな考えがきっとそこにはあったのだろう。
何時間もそこにいた。
誰にも知らせを出さず向かったから、母も父も教師も心配をしたらしい。
でも、そのときの私にはそんなことはどうでもよかった。
どこかに行きたい。
ここを抜け出したい。
ここではないどこかに。
家に戻ると、怒り狂った母と憔悴し切った父がいた。
そのことで余程の心配をかけたことに気づいた。
だけど、それでも私の心に二人の心配はあまり残らなかった。
あれから何年も経ち、私は今もどこかに行きたい衝動に駆られることがある。
ここではないどこかに。
誰もいない場所に。