11月14日は哲学思考なわたし
多分、中学生の時には哲学が好きだったと思う。
特に考えることがない時は、ぼーっと取り止めのないことを考えるのが好きな子だった。中学生の頃の日記に、「わたしが細胞のかたまりなら、わたしは地球という生命体の細胞の一つじゃないか」みたいなことを書いたことを覚えている。
たとえば地球が生命体だとしたら、人間は地球に住み着くガン細胞みたいなもんで、これだけ増殖すれば悪性腫瘍扱いされて、あっという間に地球から消し去られてしまうかもしれないな、と思ったりもした。できるなら、自分の生きてる時代じゃないといいなと思ったり、一気に消し去ってほしいと願った。
こんなことを考えてるなんてことは、今の今まで、人に言ったことはないけど、今日はニーチェに関する本を読んだので、まあ、書いてみてもいいかなと思って書いている。
子どもを持とうと決めた時は、一種の動物として子孫繁栄をすべきかなと思った。特別に結婚にも出産にも興味のない人間だったけど、社会的な動物として生きている以上、人間としての営みも達成しないといけないとも考えた。夫婦二人の役割として、二人の子を持つのが妥当かなと考えて、妊活をした。正直、当時はそれがベストだと考えてはいたけど、今ではいちいち理屈っぽくて鬱陶しい思考回路だなと思っている。
この話は、子どもが欲しい欲しくないという話になった時に、自分はこう考えたと伝えてみたりもするが、そんなことを考えたことはないと言われることが多い。わたしの身近にはそういう人はいないかもしれないけど、世界は広いのだから、どこかに共感してくれる人はいるに違いないと思ったりもする。
そんな風に、よくわからない理屈をつけては、自分で納得した気分になり、満足して生きているのがわたしという人間である。
今は、なんで創作をしたり、文章を書いたりしているのだろうか、と考えていることが多い。せっかく毎日更新をやめると宣言したにも関わらず、また毎日日記を書いている。自分でも何がしたいのかよくわからない。習慣というものは恐ろしいものだな、と思うと同時に、辞められないなら、あえてやめる必要もないかな、と考えている。
毎日更新をやめようと思ったのは、小説を書く時間を確保したいというものだったり、夕方になるとピントが合わなくて目の負担になりすぎているというものだったけれど、結局、小説はあまり書いていない。
書いては、やめて、やめては書いているような状況だ。
最近は楽しくてそれをやっているのかどうかが、いまいちわからなくなってきた。
タスクをこなすのが好きだという性質上、小説を書き上げるという行為は楽しいけれど、思った以上に上手く書けなくて、匙を投げたくなっているのが現状だ。
小説を書くのが楽しいという人は、書くのに向いているのだろうと思う。わたしはどうだろう。
哲学的な思考に支配されている今、わたしは本当に心から小説が書きたいのだろうか、という取り止めのないことを考えている。書きたければ書けばいいし、書きたくなければ書かなければいい。ただ、目の前にニンジンをぶら下げなければ走れないのであれば、走る必要はないのかもしれない。
ニーチェって意味がわかんなさすぎたけど、ちょっと意味がわかんないこともないかもと思えるくらいに分かりやすかった!
けど、ツァラトゥストラはまだ、遠いな。