歌舞伎NEXT《朧の森に棲む鬼》の松也丈版ライへの感想:神の無い世を生きた男
(記事になんかかっこいい題名を付けようかなと欲気を出して検索してたら、
「いつはりの なきよなりせば いかばかり ひとのことのは うれしからまし」
という古歌に出合った。古今和歌集収録だそうです。ぴったりやないか!!)
最初に申し上げておきますと、《朧の森…》は愉しかった。演者の皆様に言及するとそれぞれの方の魅力が大爆発で、キャスティング側には よくぞこの方を呼んでくださった~~~!! と感謝の幣を振り回し、役者さん側には よくぞこの役を受けてくださった~~~!! と随喜の涙を流す思いであります。本当。最高。ベリーファンアンドハッピーですソービューティホー、ソーグゥッド。特にツナ時蔵丈とマダレ猿弥丈。ツナさま親衛隊に入りたいしマダレを親分と仰ぎたい。(※この二人が後半一気に親密になるものの血の繋がった兄妹だから男女の関係には絶対ならないっていう境界線が確立してることにものっすごく感謝しました 最強じゃんそんなん アッッ《玄冶店》だ!!!!!)
そして、これは別に重要事ではないのだが、わたしにとっては【歌舞伎じゃぁないな】だった。"歌舞伎役者を揃えて&歌舞伎の要素をふんだんに入れて現代の演劇をやりました!" の感覚でした。かつてわたくしが最も多く観ていた劇団は演劇集団キャラメルボックスで、特にチャンバラのある髷物を好んでましたので、あ~ あの感じだ~ と懐かしさを呼び起こされながら観てたところがあります。
なお、【違うな】と思った最たるものは附打ちのタイミング(→ 使い方)。《朧の森…》ではフラメンコのカスタネットに近いのかなと思った。スポットライトの切り替わりとか、アニメーションのカットが替わるイメージで附けの音を入れてるんだなと。翻って、歌舞伎の附打ちは "画面" に連動してるんじゃなくて役者の "体" にくっついてるものなんだなと、自分の中で認識を深められた感じがあります。
《朧の森…》の新感染版は存じ上げず、元になったという《リチャード三世》もごく大まかにしか知らないのだが、それでもというかそれゆえにというか、"おぉこれが三人の魔女かぁ、ほほう" (※後述) とか "あぁ高貴なお妃をたぶらかす展開だったよな" とか知ってるシチュエーションが出てくるとワオワオ!って楽しかったし、【実ハきょうだい】が展開されると "ウオォオ歌舞伎だーー!!!!" って爆アガリしたし、それでいてライが最終的には死ぬんだろうなという結末だけは予想して、わりと平静な気分で(→ 常軌を逸して大興奮の渦に呑み込まれることはなくという意味です)観ていたんですよ、大詰の最後の最後、前頭部に二本のツノを生やして転生ライが出てくるまでは。
デーモンだ。
と思った途端、急につぅーーんと涙腺が刺激された。本当に、急に。
ここまで、この人は、誰にも止められずに、生きてきてしまったのだと。
そうして四時間近く観てきたこの物語でエイアン側の宗教的要素が一切排除されてたことに気がついた。宮廷権力に付き物の高位聖職者とか、町や村の坊さんとか、そういう人物が登場しない。神や仏といった高次元の存在を示す言葉も出されない。(オーエ側の血人形は信仰に結び付いた奇跡というより、正しい手順をとれば成立するシステマチックな呪いであり、道徳と結びついた宗教観念とは別物と見る。)
そうなのだ、だからライはこうなったのだ。神は救ってくれなかったから。天罰も下してくれなかったのだから。何もしてくれないということは、
この世界に神は無い。
そんな乾いて冷たい世界で、ライのような男の子がいったいどうやって這い上がることができただろう。
小さい村の、貧しい暮らしに生まれて、(物語の序盤時点でおそらく孤児で、)敗残兵の死骸を漁って金目の物を剥いで生きてて、すこぶる速く回転する頭脳も舌も活かせる場を他に知らなくて。もしもエイアンが福祉の行き届いた近代的国家なら、ライの才覚は勉学や商売に発揮されて穏便に成功していたかもしれない。けれど実際のエイアンは、最高権力者には覇気が無く、武官たちは己の保身に汲々とし、弱い者に当たり散らし、或いは現政権を見限ろうとする。中枢が腐敗している国家の末端で、道徳を説く人も無く、助けの手を差し伸べる人も無く、乱暴者の幼馴染を弟分に据えて世を渡ろうとすることが、森に踏み込む前までのライにとって最善であり、社会的に見て妥当でもあったろう。
チャンスをくれたのは魔物だった。たとえ最後には破滅が口を開けている道だとしても、人らしい立場に、活躍の場に、栄華に導いてくれたのは朧の森の魔物だけだった。その助けを借りて、己の身を引き上げて、自分の能力を最大に活かせる場に辿り着けて、その歓喜と誇らしさは如何ばかりだったかと思う。
これがおれの力だ、これがおれの本来の姿だ。どうだ見たか、もっとできる、おれはもっと高みまでいける!──その手応えと自己肯定感にライは輝かしく燃え立ったのではないか。
(※活躍の場に巡り合えた人物の幸福、及び場に巡り合えない人物の不幸、というものにわたしは弱いです 《大江戸りびんぐでっど》もそう ↓)
例えばライが同じことを、自分のためでなく主君や他人のために為せば、それは美談になっただろう。人を騙しても殺めても、その動機が自分自身に向かわないなら。そんな話は歌舞伎の中にもごろごろ有る。
自分のためにしただけだ。権謀術数も殺害も、ただ自分のためにしただけだ。それを神は止めなかった。止める神は居なかった。誰も彼がこうなるまで、道を正してくれなかった。誰も救ってくれなかった。
ならば、自分で、自分を高みに上げるほか無いではないか。
朧の森の魔物を取り込み、人でないもの、デーモンに化身を遂げてなお、ライはライであることを止めていない。自分の来し方を、悪行の数々を、反省もしないし悔い改めもしない。するわけがない。彼はただ自分の力を精一杯に使って上を目指しただけなのだから。そしてなお、上に向かっているのだから。
長袴でわっしわっしと宙を昇っていく松也丈ライを見ていたら、がんばってきたよねあなたは、精一杯生きたんだ、という感情で、なんかほろほろと涙ぐんだのでした。
その点で、わたしはこの作品をバッドエンドとは分類できない。人としての肉体は多分死を迎えているだろうけど、ライの魂は滅びていない。
(「朧の森に棲む鬼」に、ライは成ったんだな、ライが鬼に成るまでの物語なんだな、と思った。)
もちろんハッピーエンドでもない。メリーエンドでもない。ライにとって物語はまだ終わらないので。
煉獄、あるいは修羅道で、生者が知覚できない場所で、彼の闘争は続くのかもしれない。それは "我々" にとっては苦しいけれど、ライにとってはもしかしたら身に馴染む場所なのかもしれない。おそらく生まれたときから彼にはずっと、世界とはそういうものだったから。活き活きと、永劫に藻掻いているのかもしれない。
ただ作品としては当然エンドで区切られるわけで。
この話のメインキャラクターで最も "グッド" に近い "エンド" を迎えたのはキンタではなかろうか。(愛する夫の仇を討てた、という点では武家の血筋の貞女ツナもそうであるが、彼女がこの物語中で喪ったものはキンタよりずっと多く、物語を通じて失くした痛手のほうが大きいため)
おそらく幼い頃から "アニキさえ居ればいい!" だった彼が、全幅の信頼を置き敬愛を注いでいたアニキには身代わりという形で消費されつつ、しかし自分がアニキにとって特別な存在ではあったのだという事実を信じ続けられたし、その上で心から自分を大事にしてくれる人の真心を受け入れ、やがて家族や仲間を増やしていくだろうことが感じられる。
シェイクスピア的世界観での宗教思想を持ち込むと、キンタは「目を抉っても魂が地獄に投げ込まれるよりいい」みたいな聖書の教えの体現なのだなと思った。(※いま検索したらマタイの福音書だった。 5:29-30「もしあなたの目が情欲を引き起こすなら、その目をえぐり出して捨てなさい。 体の一部を失っても、体全体が地獄に投げ込まれるより、よほどましです。」)
ライのうわべに目を眩まされ、利用されるだけ使役されるという従的役割を脱してキンタが自分自身の主人となるには、見えたものをそのまま信じてしまう "愚かな" 両の目玉を抉り出される出来事が必要で、その衝撃を経て初めてライの呪縛を離れて人間らしい幸福を得ることができたのだという筋に思える。
さて序盤で触れてた「三人の魔女」ですが、わたしシェイクスピア作品にちゃんと触れてきておりませんで(テヘ)、あれ検索したら《リチャード三世》じゃなくて《マクベス》に出てくるんですね。で、あらすじ確認したら、"森が動く" とか "〇〇に殺されるまで死ぬことはない" って要素も《マクベス》で、ははぁ するてぇと《リチャード三世》と《マクベス》と「酒呑童子伝説」を綯い交ぜにして作劇されてんだなこれは、と気づいて改めて感嘆いたしました。(作中、シュテンの首が晒された、ってセリフで すげぇ~~、と唸る思いでした)
で、この《マクベス》発と思われる呪い(というか、運命の縛りというか)を絡めたところからも、「言葉」の呪術性を重く扱った脚本なのだなと思った。シェイクスピアの戯曲がそういう(西洋の価値観に根差した)性格を有しているのも響いてるのだと思う。
物語後半で、マダレ(やキンタ ← うろ覚え……ツナだったかしら?)が、「言葉にするとライと同じ土俵に立つことになる」「言った言葉で縛られちまう」みたいなことを数回口にする。
【言葉にする】、すなわち【思いや気持ちに輪郭を与えて明確な意識にしてしまうとそれに行動を左右される】という構造が、"人間の考えていることを見通すので、弾けた栗のように人知の及ばぬことで撃退するしかない" 化け物:サトリのようだなと、思ってたとこに、ライがキンタを死なせることを躊躇ったというキンタの指摘を聞いて、ははぁと思った。結果として、ライの弱点を見事に突いたのだなと。
ライは云わば言葉のスペシャリストであり、自分の口から出たものであれ他者が発したものであれ、形をとった言葉であれば自分に都合よく操ることができるが、言葉になっていないもの、意識として明確になっていないものには、力を及ぼすことができないのだ。
あれほど言葉と意識を自在に操作し利用した男が、自分の胸の中に在る、言葉になる以前の形をとらない思いによって破滅に追い込まれるというのが、人間らしく哀しくもあり、明文化された呪いと能力の隙間をうまいこと縫っていて、よく出来てるホンだなぁと思いました。
幸四郎丈バージョンも楽しみです。
楽しみです!!!