
研の會《摂州合邦辻》右近丈の玉手御前の感想:存在理由を見つけた女性
第八回《研の會》の、昨日の夜の部の右近丈の玉手御前に強く感じたのは、それゆえにわたしが思いがけず悲しみに突き落とされたのは、凄まじいまでに確固たる、自己肯定感の低さであった。
前半の玉手御前は、時々面をクモラス際に裏の思惑をちらりと見せつつも(※その点、モドリに及ぶまで徹底して本心を隠し通して見えた菊丈玉手より“わかりやすさ”があったと思う。嫉妬の乱行に及ぶ直前に、覚悟を決めたように小さく頷く動きも、菊丈の玉手には無かった気がする)、艶やかな女性美を、芝居としては観客に、物語上としてはこの家の人々に、たっぷりと見せることに意識を置いているようで、次々と表される婀娜めいた姿態が大判ビジュアルブックをめくるように華やかだった。
それゆえ “物語” としては(わたしは)没入感が深くはなくて、なるほどこうなさるのかぁ、と割合客観的に観ていたのだが、その姿勢を一気に突き崩されて引きずり込まれたきっかけが、なぜ俊徳丸を追って来たのか、と問われて返す「さればのこと!」的な一声だった。
なんて嬉しそうに! なんて高らかに、晴ればれと!!
その瞬間から玉手御前の人間性が逆噴射で “視えて” きた。その一言に至るまでの、彼女の人生と人格形成の過程が逆回しで見えてきた。
思うに解毒方を確認した時、「あら😳じゃあ私の生き血で済むんだわ!なーーんだ✨(ホッ☺️) この手で行こう✨」にアッサリなっちゃったんだと思うんですよ菊丈玉手、なんでだよ、滅私奉公精神やめえ!😭
— 猿丸(弓削猿丸) (@sarumal) September 3, 2024
菊丈玉手が恐れたのは、死ぬことじゃなくて清廉潔白な両親に誤解され続けることだったと思うんだ…
この人にとって、己の血が解毒に有用であることは、菊丈玉手に感じたような、単に “都合が良い一条件” に留まらず、【自分がこの世に生を受け、今日までこの人生を歩んできた意味】くらいの運命的な福音であったのだ。これまでの彼女の悩みを吹き飛ばし、死すら厭わぬ使命感に喜びとともに駆り立てたほどの。
思うに彼女は、大出世と言われた玉の輿を持ち掛けられたときも 受けて “奥様” となった後も、『どうして自分が』『身の丈に合わぬ厚遇』と惑い悩み、不釣り合いだと苦しみ続けていたのでないか。美しい容姿に卑しからぬ人品を備えた立派な女性でありながら、それゆえに訪れた幸運は、お辻/玉手御前の思慮深さと謙虚さによって、彼女を手離しに幸福にはしなかったのではないか。天は何の目的のために私をこのような立場になされたのか、と常々彼女は思案しながら、その答えを探して悶々としつつ、表面には日々粛々と勤めを果たしてきたのではないか。
そこへお家の一大事だった。かけた呪いを解くに等しい大詰めの一手に必要な鍵が、天文学的な確率で産まれおちた人間の命であり、それが己にぴったり重なると知ったとき、右近丈玉手の身に走った衝撃の強さは菊丈玉手の数倍だったと思われた。安堵どころの穏やかなものでなく、脳天から地軸を貫くような激しい歓喜と、悟りをひらいたような世界との一体感を強烈に覚えたのではなかろうか。
このために。この役目を果たすために、私は、今まで。
心から、一片の迷い無く、そう思い込んだが為に、彼女はここまで邁進できたのだ。そう見えた。
父合邦の、「スリャそちが生まれ月日が妙薬に合うた故……それで毒酒を進ぜたな!?」を受けた玉手の「アイ!!」が、菊丈版は【父の素早く整理された答えを聞いたことで芯から自分を理解された手応えを感じた喜び】と聞こえ、右近丈版は【「そちが生まれ月日が合うた故」の重大さを己の身の内で反復させ増幅させそのことを高らかに肯定できる喜び】と聞こえた。そうなの!!あたしなの!!このあたしなのよお父さん!!と言わんばかりに。
(これは前日に歌舞伎座で観た吉弥丈に感じたことなのですが、娘の告白を聞いた後の母おとくが、「ほんにこの子が産まれたは、寅の年寅の月……」と泣き泣き述べて、「ひょんな月日に産まれたは、持って生まれた不運か」と嘆き下ろすセリフの【不運】の響きが、その生まれであることが果報以外の何物でもない娘の歓喜と絶壁のギャップを見せて、いっそうこっちの涙を絞りに来たよね…… 自分がそんな月日に産み落としさえしなければ、って我が身をも責める悲嘆じゃないすか……(菊三呂丈おとくは娘の告白のあいだ背後でずっと両手をついて項垂れていて、嘆きの深さを感じました))
玉手御前のそうしたナチュラル自己卑下キャラクターが “視え” てから、前半の淫奔そうな姿を思い起こすと、あれほど傍若無人で手指の先まで女の自信に満ち溢れた様子がすべて芯の人格の真逆であったかと、この自分ニハ何ニモナイ的な無私の女性を裏ッ返したさまがあの邪悪艶美な玉手御前であったのかと、前半後半で同一人物のキャラのギャップを突き付けてくる演出になってて、狙ってなさってるとしたらすんげーことだなと、現場でぼんぼん泣きながら思いました。なんてことなさるんすか右近丈。恐ろしい……!
そもそも演出がどうこうの前に脚本自体が大分えげつねぇのである。玉手御前という人物もそうだし、筋立てがかなりひどい。(※出来がひどいという意味ではないです)
わたしはこの物語を合邦一家の崩壊の話だと思っていて、成敗されて亡き者と信じた娘がやってくるところは短編怪談『猿の手』のクライマックスの不気味さがあるし、人が変わったような娘の淫らな様子にぞっ…としているおとくの恐怖に釣り込まれて肝が冷える感じが序盤はする。気味の悪さが前半を包み、本心が知れる後半は清らかな者が死に向かうという取返しようの無い悲しみに包まれる。玉手は最終的には本懐遂げて満足して絶命するけども、そうした娘を持った名誉はともかくも、可愛い娘を失う老夫婦だけが残されるのである。この先何を楽しみに生きたらええんやこの人たちは……。いずれ建立される月光寺の守り役になるのかな……
あんなに立派な両親の元で育って、いやそれゆえにか、どうしてそんな、自分の存在理由をそこにしか見出せない人格が成り立ってしまうのだろう…… これはもう、生まれに当然貴賤があるとする封建社会への激烈な批判作品なんじゃないかと思ってしまうぐらいえげつない筋立てじゃぁないかいね……
お辻さんが屋敷奉公になんか上がらなければ良かったのかな。この小さな家で、静かな田舎で、運命を感じさせる何物にも直面させられずに埋もれて暮らしていられたら……。でもそうしたらきっと、あれほど激しい歓喜と漲る自己肯定感を一生のうち味わうことも無かったんだろうな……。いやだなぁオイラぁ、そんな幸せは……。
すてきな舞台でした。