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《妹背山婦女庭訓》お三輪と官女たち
《妹背山…》の演目自体が歌舞伎の舞台で実見するのは初めてで、社頭の場("道行恋苧環")のとこは資料館の映像(求女が松緑丈でお三輪が先代雀右衛門丈)だったり日舞(お三輪が井上八千代氏)だったりで観たことがあるのだけど、全編通したオチまで知らなかったので、最後のほうなんか、あぁここでこうなるんですかぁ!ほへぇ! と新鮮に物語を楽しめた。
あと先月歌舞伎で観た段のさらに前の部分は、春に大阪行って文楽で(吉野川まで)観てたんで、https://x.com/sarumal/status/1651385463217979392?s=20 これでようやく全体が見えたなぁ! という感じ。大阪行って良かった。《妹背山…》履修しましたと言うことができる。
なので直前が人間国宝の「泣きながらカツカレー喰ってそうな強い娘」お三輪で、https://x.com/sarumal/status/1695338693241024662?s=20 こちらがたいへん好かったので、菊丈がお演りになって物足りないことなどよもやあるまいけれども、今回に関してはお三輪に対する期待値を勝手に上げちゃったんじゃないかしら、と一抹の不安も感じつつ赴いたのですが、
お 流 石 で 佳 か っ た よ ね ! ! ! !
(※しってた)
・可愛さがすごい菊丈お三輪
すごいんだもう、社頭の場、終始プリプリプンプンしてて。一分の緩みも無く可愛いんだもう。
米吉丈橘姫と並ぶとどうしたって年齢差は感じて、橘姫が16, 7、対してお三輪は19, 20ってとこかしら。当時だったら結婚適齢期をちょいと過ぎた、年増踏み込みかけって感じのおねえさん。
嫁の貰い手が無いというより、評判の美人で家も裕福だから婿の成り手が引きも切らずで、お三輪本人の理想も高いんで選り好みしてるうちにずるずる歳月が経ったような。そろそろ妥協しなくっちゃぁいけないよ、と周囲から諭され始めて自分でもそうかなって思い始めた丁度その頃、理想ど真ん中の色男求女が現れて この人しか居ない!私はこの人を待ってたの! ってぞっこん夢中になっちゃったんですね分かります、という気がした。
恋敵の橘姫よりも、ことによると求女よりも齢が上かと思われたこのお三輪が、だから源氏物語の六条御息所に重なって、するとこれは光の君を取り合う葵上と御息所、と思うと「疑着の相」のキーワードもいっそう深まって思われた。
そうすると、橘姫とお三輪を比べた際に、同じ年頃の二乙女という "女の魅力" における【重要な】同等性が崩れ、貴賤の差だけでなく年齢(による立場)の差も俎板に乗ることになり、結果適齢期に在る橘姫の嫁としての優位性が行き遅れかけのお三輪の前に聳え立つ図が見えてくる。
これは辛い。好いた殿御を取られまい、逃すまいとするお三輪の執着も「年齢」という火車が背後にくるくる迫って、いっそう切実な死にもの狂いを演出する。
先に観た先代雀丈も日舞の井上八千代氏も御年齢はベテランの域で、共に橘姫を演じた方とは数十単位で年齢の開きが有ったのだが(※雀丈お三輪版の橘姫はうら若き菊丈でした)、そこまで明らかに差が有ると、観る側のほうで「同じ年頃ってことですよね」と自動的に修正を加えるんで意識に上らないんだな、と今回分かった気がする。そうすると今回の菊丈は、わざわざ脳内補正をかけるまでもなく自然と乙女に見え、しかし福々しくハリのある米吉丈のお若いお顔と比べるとはっきりと年長に見える、という絶妙な容貌でいらしたのだ。
この臈たけた年上美女が、御殿に忍び込む段になると、途端に3, 4歳幼く見えるのが不思議でならぬ。就職活動も視野に入れようかって学年の大学生が急に高校1年生になったら「わかッ!」てなるでしょ。そんくらい齢が吹っ飛ぶ。で可愛さが3倍くらいになる。いとけなくなる。おっかない官女たちにやいのやいの言われてびそびそ泣き出しちゃうあたりなんか完全に16歳かそこらですよ。待って菊丈の実年齢おいくつなんでらしたっけ?????
・ジブリキャラっぽい官女たち
前述の通りこのへんのシーンを知らなかったんで すっっごい楽しんだ、三笠山御殿の場。白い小袖(?)に緋色の長袴の官女たちが扇のへりのかたちに居並んで、扇の要のとこに緑の着物のお三輪がちょこん、という補色関係の色彩とフォーメーションの鮮やかな景色を三階から眺める愉悦。
そして普段は立役が主な方々ばかりで占められた(※菊史朗丈もいらっしゃるけど)官女たちの様子の面白み。中央から上手側へ、菊市郎丈、千次郎丈、蝶八郎丈、吉二郎丈。反対側、中央から下手側へ、菊史郎丈、吉兵衛丈、菊伸丈、咲十郎丈。皆さん殊更に顔面をぶさいくにこしらえてはおられないのだけど、その "普通に顔をつくってこうです" みたいな生真面目なおかしみが充溢してて、だけど強調していないので「こういう顔貌の女性たちが集まってることだって普通にあるよな」って日常性も生まれていて、そのおふざけと真顔感のバランスがすごく好い。官女たちはお衣装が無個性なのでしぜんとお顔に視線が行って、綺麗にお化粧を施してもいない、素に近い面相をこう並べて見せられてると、レオナルド・ダ・ヴィンチが好んで集めていた "グロテスクな" 相貌のスケッチや、ヒエロニムス・ボスが虐げられるキリストの周囲に描いた悪心を持つ人々の頭部を思い出す。そう、ボスの描いた、寄ってたかって罪の無いキリストを責め苛み嘲り嗤う兵士や民衆なんて、お三輪をなぶる官女たちとそっくり同じ構図である。
それから、この戯画的でありながら「まぁそういう顔や体型をしてる普通の人って線もイケるか」と思われる女性集団の造形が、《君たちはどう生きるか》のお屋敷の老女たちにすごく似てると思った。(結局あのおばあさんたちが生身の人間なのか守り役の何者かなのかは説明されないよね)
年若い主人公にとって彼女ら彼らがどういう人々なのか分からないまま、先方が明確に優位に在り、そちらのルールに従わねばならないという不安で落ち着かないシチュエーションは、《千と千尋の神隠し》の油屋の仕事場や湯婆婆の部屋の居心地の悪さを連想させた。というか宮崎御大の意識の基盤にこのシーンが根付いてるんじゃないかってくらいジブリとの親和性を強く感じた。説明無しに次々出てきてこちらを(=主人公を)ジロリと一瞥する、自分から親切に説明してくれる気のさらさら無い感じの、わけの分からない者たち。ジブリファン、観てみてください今月の三笠山御殿の場。この笑うべきか嘆くべきか心がおろおろする、でも見ごたえがすごく有る官女のシーンを。
・"世界" に膝を突かせたお三輪
さんざっぱら打擲されて、笑いものにされて、約束を反故にされて、傷ついて泣き濡れて(※初日の今日は実際に涙が流れていて、落ちた紅色が頬まで伝っていた)ぐずぐずどろどろに疲れきったお三輪が、それでも求女の祝言を思えば……と足を止めて憤激で振り返って叫ぶ、その凄まじくもやるせないシーンからお三輪の物語はクライマックスに突入する。戻った御殿で鱶七に脇腹を刺されて倒れ、口紅を白粉で覆い目元に藍を刷き、血の気の失せた死相となって最期の言葉を洩らす哀れさが、今月最大の泣かせどころであろうと思う。髪もおどろに振り乱れ、右目は引き攣れ左目は虚ろで、生きながらにして死霊と化したような無残なお三輪が、それでも恋しい男の役に立てる我が身の喜びを口にして、蒼褪めた白い顔に満足の微笑みを浮かべたとき、「世界が少女に負けたんだ」とハッとして思った。
大悪人入鹿が目論んだ新世界が、何人も何十人もの大人が翻弄され命も落とした国家転覆の一大危機が、たった一人の田舎娘の、恋の力で阻止されたのだ。ただの一つの恋の前に、世界は膝をついたのだ。
これはすごいなと思った。すごい仕組みの作劇だと思った。都の、上つ方の、庶民には与り知らぬ国家政府の話に始まり、大スケールの策謀劇に二家の存亡をシリアスに絡め、このまま大上段に押し通すのかと思いきや突如スケールダウンして「庶民の話」に持ってきて、しかも焦点は山家の杉酒屋のおきゃんな娘、その恋心が乾坤一擲の切り札だ。普通の少女の恋愛が世界を変える鍵となるのだ。なんだラノベか?? セカイ系だな???
嬉しいでしょうよ大衆には。時代物かと思って見てたら「なんだおれたち/あたいたちの話か!」ってなるんだもんよ。そんで庶民が偉い方々をひっくり返す逆転的でしょ。いや~~よくぞ。よくぞこんな話を。《忠臣蔵》で農民出身のおかるを武士階級に潜り込ますみたいな仕掛けですねこのお三輪は。見物衆と物語世界とを繋ぐフックになっている。
お三輪の満足には、好いた男の力になれた一乙女としての喜びの他に、これだけ大ごとなスケールの事件に庶民が爪痕を残してやれた、階級的な「ざまあみろ」の快哉も潜んでいるのじゃないかと今日観て思った。
面白いですよ。早いとこ観ましょう。そんで早めにお代わりしましょ。