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ニョイトフニョイ 1

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久々に市内の繁華街に出る用事があり、朝からなれないスーツなんか着てそこここへと走り回って、結局用が済んだのは夕方だった。高さの揃わないビル群の外壁が、てらてらと橙に染まりはじめている頃。

ネクタイを襟元から剥ぎとり鞄に押し込みながら、私はどこぞの店で晩飯でも食おうかと思ったが、冷蔵庫に生ものが残っているのを思い出してやはり帰ろうと駅へ向かった。すると、改札口から偶然にも大学時代の先輩が出てきて。だからやっぱり食ってから帰ることにした。

適当な中華屋に入って二人ともビールで乾杯し、私は餃子と炒飯を、先輩は天津飯と酢豚を注文した。登山部で一学年上だった、名を吉岡という先輩は学生の時と変わらず色黒で頭はスポーツ刈りのままだったが、しかし表情はどこか暗く、覇気がなかった。

飲み食いしながら今仕事は何やってるんですかと聞くと、少しく間があいてから「まぁウドンコネリですわ」と意味が分からない。え、何ですかそれ。と聞き返したらどうやら「うどん粉練り」という仕事らしい。つまりはうどん屋であるが、素直にうどん屋と言えばいいのに、何か恥ずかしさを隠すような感じだった。しかし顔は赤らむでもなく、むしろ冷たく、青ざめたように見える。

なにかまずいことを聞いてしまったかと思い、だから違う話題に変えようとすると、先輩は私を遮って訥々と喋り出した。

「最初はメーカーの営業やったんやけどな、一年前に辞めたわ」

「大変だったんですか」
こうなれば話を変えるのはよしてしまったほうがいい。

「そうでもなかった。いや、まぁそれなりに忙しかったけど別に体壊す程でもないし、休みも普通にあったな」

「ほんなら職場に嫌な上司がおったとか」

「いや、それこそ先輩とか上司はええ人らやった。そこは全く問題なかった」

それなら金か。しかし総合職からうどん屋なんて、後々のことを考えても、給料面を改善するための転職先とは思えない。それならもっと他に何か解決策があっただろう。

「単純にサラリーマンが嫌になったとか?」

「いや、俺は今でも普通の会社員になりたいし、うどん屋なんてやりたくない。前の仕事辞めたのも、今うどん屋で働いてんのも、全部な…」

「…全部?」

「ニョイジーのせいやねん」


先輩とは中華屋を出たあと店前で解散し、日はとうに暮れていた。だいぶんよい具合に酔っぱらった私は、素直に帰ればいいのに、しかし、なんとなくまだ満足していない気がするので赴くままに往来をふらふら往来していた。

駅近の繁華街から少しく北へ、蓑笠峠の方面へ行くとみるみるうち中心街のアーバンぽさ、熱量、ツヤ感なんかが薄まっていく。が、そのかわり侘び寂びというか、古び朽ちゆく中にこそ光る幽趣の粧ひ、あぁ我が風情よ、的な閑寂枯淡の一帯が現れる。品の良い着物のお姉さんが「うちのお酒飲んで行きよし、ええ宵にしまひょ」とかなんとか大胆さすら感じる文句で誘ってきそうな一級の往来である。

ところが本通りから小路を進んだ先に、おお、なんちゅうぼさっとした飲み屋だ…と私は偶然に、あるひとつの居酒屋を視界の端に発見した。

幽趣の小路で見つけたその飲み屋は一見してなんらの趣もない、ただひたすらボロく異常な瘴気を孕んだ平屋で、はっきり言ってキモかった。

家屋のぐるりにはビロビロのわかめが大量に散乱し、腐った壁の板は隙間だらけで内から外へ黄色い灯が漏れ出し、トタン屋根からは椰子の木が突き抜け、入り口の横に立て掛けられた看板には、新聞広告の文字切り抜きを組み合わせて「呑み処〜キモ屋敷〜」と貼りつけられていた。ついでに犬か猫の糞が落ちていた。

それにしても、件の呑み処〜キモ屋敷〜は、ボロいとか汚いとか以前に、そもそも欠陥建築である、というのだろうかこれは。

まるで自身の男手ひとつで大切に育てた可愛い一人娘が大学へ進学した途端、クソサークル男子学生の奸智に嵌り性奴隷のような扱いを受けて妊娠、「お父っちゃんごめんなさい」と泣き崩れ絶望する娘を見て絶望する大工の男が、じゃが仕事をサボるわけにはいかんそれがプロの大工じゃい、と引き受けた新築一戸建ての建設に取り掛かったもののなんと実はその家の依頼主、入居者というのがどうやら娘を廃人に変質させた件の男子学生の一家であると知りぎょぺぺぺぺぺぺ発狂。ほとんど自棄糞になって建築に必須の作業工程を8割がた無視し、結果2日で普請完了したような狂気と呪詛と絶望が満々の感じの平屋であった。テーマは"呪いと死"でござりんす、的な。ううむ、絶対にこんなところで酒はのみたくないなあ。

しかし私は酔っていたこともあり、むしろそのような店拵え、飲み処〜キモ屋敷〜という店名に、気が狂いそうなほど冒険心、あるいは探究心をくすぐられていた。来週友人と遊ぶ予定だからその酒の席での話のネタにこれはなりそうだな、とも考えた。だから、立て付け最悪の木の引き戸をなんとか30センチほど開け、体を横にして無理やり中に入ってしまった。

店外と店内との境界をまたぐ時、ピリリとなにか静電気のような、微弱なエネルギーが全身の肌のうえを走った気がした。ちょっとむず痒い感じで、私は少しわななきもしたが、特段気にすることもなく、熱燗でも飲もうかな、などと呑気なことを考えていた。



つづく