シン・おっさん教員
みなさん、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
僕の今年の目標はと言いますと、『シン・おっさん教員』になることです。
当たり前ですが、おっさんになると、イチ担任として自分のクラスとか、イチ学年主任として自分の学年とかさえ見てれば良いのではなく、主語を学校にして仕事をしていく必要が生まれるわけです。
ここからダラダラと、これまでの自分が散々してやってきた失敗をもとに、自戒を込めて言語化していきたいと思います。
現在進行形でおっさん教員の方、また未来のおっさん教員の方、ちょっと耳の痛い内容になるかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。
自分で困難を招き寄せない
過去、自分で困難だと感じていた周囲の環境は、今思えば自分で招き寄せていたものだと思う。
浅はかな知識をつけ、空虚な自信を持ち、中途半端な実践力で何かをやろうとし、そして空回りする。
なんならもう一つオマケに、己のうまく行っていない状況を他責する。
そして周囲との軋轢を生む。
ほら、これ完全に自分で困難を招き寄せている状態だ。
日本中にはすごい先生がいる。
でも、それはそれぞれのストーリーにおいて泥だらけになりながら到達した高みであって、一朝一夕に真似してできるようなものではない。
例えるなら、YouTubeで世界的プレイヤーのプレイ動画を見て、その辺の公園でそれを真似しようとしているようなもんだ。
そう、自分はメッシにはなれかったのだ。
なのに、メッシのプレーを真似しようとし、???を浮かべる周囲に対し、苛立っていたのだ。
悲劇のヒーローではなく、ただの痛いピエロだったのだ。
それもこれもふくめて仕事
さすがにそんなピエロのままおっさんになってはいけない。
シン・おっさん教員を目指そう。
最近掴んだ感覚は、それもこれもふくめて仕事だということだ。
自分なりに日々学び続け、公教育のあるべき理想と実際の全国の公教育の実際を照らし合わせると、あちこちに問題が発生していることが分かる。
これは誰もが「んだんだ」となるところだ。
しかし、そういった問題意識を持ち何とかしないとなんて思っている教員の比率は、実際のところそう多くはない。
そもそも、日々の業務にいっぱいいっぱいで、それどころではないというところが中央値ではないだろうか。
ここで大切なことを一つ確認しておく。
Twitterは外れ値の集合体だ。
すなわち、仕事後も休日もさまざまなメディア媒体を通じて、教育に関する情報を収集しているような変態(褒めてる)教員は、現場レベルではマイノリティだということ。
そうなると、あなたの口から発せられるさまざまな当たり前は、現場では当たり前ではないという前提に立たないといけない。
そもそもあなたが声高に謳うその教育論は、残念ながらそもそも周囲の誰も求めてはいないのだ。
とてつもなく険しい道に感じてきたかもしれないが、そう、それもこれもふくめて仕事なのだ。
理解されないこと、疎まれること、嫌われること、そんな崖の底からスタートし、丁寧にアプローチしていくことが、あなたには求められるのだ。
シン・おっさんの仕事力
さあ、何か新しいことを提案しよう。
提案することが仕事ではない、提案したことを職場内で軋轢を生まずにソフトランディングさせるところまでが仕事だ。
今なら言える、「人間関係を壊すような人は、仕事のできない人だ。」
過去の自分をオーバーキルする一言だが、これはあえて日本中のおっさんに伝えたい。
自分なりに言語化して整理したことを、先月のKONAMIの桃鉄のイベントでプレゼンした。
ほら、桃鉄教育版をファーストペンギンとして自校に実装していくのって、かなり難しい仕事だ。
この絶好の具体例を他の仕事へ置き換えると、全てのおっさん教員に求められる難しい仕事をこなしていく力に直結していく。
ここではダメなパターンと取るべきアプローチについて考える。
❶はあ、何でこんあ良ぇもんが理解されへんねん・・・→大人力を
先述の通り、理解されなくて当たり前という前提にまずは立たないといけない。
相手へのリスペクトを欠いた時点で完全に負けだ。
良いおっさんは、感情的にならず、大人な対応で落とし所を探ることが大切だ。
❷はい!とりあえるやってみるのねん!絶対楽しいのねん!→提案力を
外で見聞きした何やら良さげな教育実践を、何となく現場に持ち込むと良くない。桃鉄を例に考える。何も考えずにスタートを切ると本当にタダのゲームになってしまうかもしれない。確かにそれでも効果が上がるものではあるが、周囲からしたら、ただ遊んでいるだけのように見えかねない。
公教育の文脈に丁寧にのせていく提案力が大切になってくる。
❸もう、えぇわ、うちのクラスだけやりますわ→巻き込み力を
たとえ自分のクラスだけで運用できても、周囲にマイナスをもららすようなら、それはよくない。「あのクラスだけずるい」の声を生んではいけない。
働き方の文脈とケンカする話になるが、自分の空き時間を捨ててでも他クラスや他学年に実装のフォローに行ったり、研修等でプレゼンをしたりなど、己の身を削る局面も絶対にある。あれだ、いわば営業だ。
主語をクラスから学校へ、周囲と一緒に進めていく巻き込み力が重要になってくる。
イシューからはじめよ
正月から何でこんな塩っぱいnoteを書いたのか。
それは、日本中のおっさん教員達が各現場で軋轢を生まずに、この困難な仕事を成し遂げていくことがイシューだと思っているからだ。
イシューというのは、成果を出す価値のある仕事のことだ。
おっさんにもなると、現場で影響力を大なり小なり持つようになる。
先日、Twitterでスットコドッコイな内容を見た。
「キャリアパスポートで保護者のコメント欄を作って学期末に配ったが全然返ってこない」
というものだ。
あぁ、なんてスットコドッコイなんだ。
悪名高きこのキャリアパスポート、これにコメントを手書きで・・・いかにも『っぽい』仕事だ。
おそらく、「手書きでコメントを書いてもらえれば『っぽく』なるんじゃないか」みたいな感じて決定されたであろうこの仕事、これはイシューではない。
ここの仕事にエネルギーを注いで、「全校のキャリアパスポート、保護者から手書きコメント揃いました!」ってなったとして、成果につながらないからだ。
こういうズレたビルドが、現場を疲弊させる。
もしかしたら、この提案をした人は現場では『仕事ができる』と評価されているかもしれない。
でも、悪いがこの人は『仕事ができない』
そもそものイシューを見定める眼がないからだ。
イシューではない扉を開けてそこでビルドされた仕事を周りに撒き散らしていては世話がない。
イシューはそれぞれの現場によって違うかもしれない。
しかし、『持続化可能な形で子どもを伸ばす』『教員の勤務時間を削減する』といった仕事はイシューに近いはずだ。
長々と書いてきたが、シン・おっさん教員とは『イシューを見定め、周囲とうまいことやりながらボチボチやっていく』そんな、仕事力を持つ教員なのではないかというお話でした。知らんけど。