個人的なことは政治的なこと
20世紀の第二波フェミニズム運動のスローガンに掲げられたこの言葉は、まさに"対抗的な公共圏"の形を示す好例なのだと感じた思い付きについて書いていきたい。
私の念頭にあるのは、フェミニズムやポストモダニズムなど、既存の社会秩序下で抑圧されていた、あるいは不可視化されていた人の主調である。
彼ら/彼女らの言説は、近代社会の基盤となる西洋的言説の様式を必ずしも取るものではない。そして同様に、客観性に必ずしも立脚するものではない。
ここで私の思い出したことを記しておきたい。それはある場所での話なのだが、知り合いの社会科学系のが、サイードに代表されるオリエンタリズムの主張を、その主張を引き受けつつも批判対象(即ち西洋)に向けられたものと同じように向け返したのである。要するに、オリエンタリズムという偏見とその根底にある主観性を、オリエンタリズムによる批判にも向けるのであった。
これは社会科学という、客観性に一定の基盤を置く分野のリアクションとしては、確かにありうるものかもしれない。一応の納得は可能であろう、
しかしながら、このような需要は結局としてなんらの現状変更も、議論における提起もなしえない。これは私の視点としては非常に重大なものである。
つまり、オリエンタリズム批判のような主張の効力を客観性などの点から無効化しようと試みられるのだ。これは結局のところ、西洋近代文明における秩序から脱し得ないことになるのではないか、私はそう危惧した。
このような話を通して、改めて「個人的なことは政治的なこと」という言葉について考えたい。そしてこれこそが"対抗的な公共圏"の言説なのではないかと。
斎藤(2000)の私の理解としては、対抗的な公共圏とは、ポストモダニズムの言説が掲げる、従来は光を当てられず、社会に抑圧されていた人々の主張できる場と捉えることができる。
このような言説の空間は既存の言説の空間において存立するよりも、むしろ新規に当事者を中心として言説の空間を形成する。
このような認識のなかで私が考えたのは、ポストモダニズムにおける諸議論/主張は、まさに個人的なことを核に形成され、対抗的な公共圏を形成するのであろう。
私はここで、個人的なことを政治的なこととして接続する、対抗的な公共圏/言説の空間と既存の公共圏/言説の空間の共存、そしてその共存から産み出される社会改良を希望、志向したい。
ここでは社会科学や人文科学、それぞれの領域に安穏とすることはできない。既存の思考を統治する様式への反抗のみは、最初に求められているのであろう。