今日は読書報告 1 押井守(2012)「コミュニケーションは、要らない」幻冬舎新書

1.今日は読書報告

 昨日古本を買いあさった話をしておきながら、今日は読了した本のお話。アニメ・実写映画監督の押井守の書いた「コミュニケーションは、要らない」を読みました。いたって刺激的なタイトルですが、内容から考えるに、そこまで過激な本でもないです。特におかしなことを言っている感じもない。

2.押井守的日本人論

 すでにタイトルで示している通り、この本は東日本大震災の翌年、2012年に書かれている。震災発生当初に小学1年、この本が出版されたときに小学2年だった自分は、半分歴史として認識している震災に関連して「この時日本人や日本社会をこう見ていたのか」という感や、本質的かつ率直な日本人観など、多くが驚かされ、また考えさせられる。
 取り上げる内容としては順番に、「コミュニケーション不全、合理性の無さ、日本のありかた、本質論」と大まかにくくられる。読んでいくとすべてが繋がっているように感じられ、次第に引き込まれていき、目からぼろぼろとうろこが落ち続けるなかで、気が付いたら読み終えている。新書という形式でうまい具合に完成している。
 山のように引用したいが、権利的にも分量的にもいけないので、とりあえず一か所だけ引用する。

「見たくないから見ない、気が付いても言わない、言っても聞かない、そして破局を迎える」という言葉がある。
 見たくないと思っても、見たくないものは存在するし、それはときとして強制的に見せられることもある。聞きたくないことも、それが現実となれば聞かないわけにはいかない。
 それを都合のいい言葉で語り、その場を取り繕うだけの言葉で語って済まそうとするなら、いずれはその言葉に裏切られ、確実に破局を迎えることになる。
 この国を覆っている言説は、それを延々と繰り返してきた。
 一年前の震災のときも、現在の原発に関する議論においても、その前の阪神・淡路大震災のときにも、いやそれどころか僕の生まれる前の戦争においてすら、その場を収めるためだけに言葉を用いて、破局を視座する事態に至ったのではないだろうか。
 言葉を恣意的に用いるものは、その言葉とともに滅びるしかない。
 言葉の都合で地球が回るわけではないからだ。

押井守(2012)「コミュニケーションは、要らない」P9

これが「はじめに」にのっているのだから驚くものだ。先に進んでいって、話の本筋に入ると、どこを引用すべきか困りはじめるほどに、引用したい言葉があふれてくる。やはり誰にでも薦めたくなる。

3.愛読書なんだよな

 ダラダラと、具体的なことを言わずに誉めてみたのだが、具体的に褒められないのは、どこを開いてもすごいことが書いているからなワケで、具体的に褒めれない。そしてさらに誉めがたくしているのが、この本が儂の愛読書だということ。好きで何度も読んだ本は、読めば読むほど惚れ込んで、どこがいいとか列挙すれば、大方すべてを語ってしまう。
 これ以上礼賛するのもしつこいんでまとめに一言。

「これを読め、後悔はさせん」

それじゃあ、またこんど

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