見出し画像

「2024/08/06 諸々」の続き

 昨日は広島の平和記念公園に向かう電車の中で思い立ってnoteを書きかけた。しかし慰霊式式典やデモ隊の様子を見て、古本屋を巡り帰ったのだが、そもそも徹夜のような状態だったことや、帰宅途中にゲリラ豪雨で電車が運休となったこともあり、ほっぽりだして続きは明日書くということにしてしまった。呆れることに12時間近く睡眠していたので、多少ゆとりを持って昨日書きたかったことを書けるのではないかと思う。

広島市内を歩くということ

 まず前提として、僕も含めて人間はそうだと思うのだが、過去の出来事をまったくそのまま体験することはできない。そうだからこそ、どうやってできる限りの理解ができるのか、ということを考え、試みるのだと思う。
 1945年8月6日を理解しようと努めるにあたって、体験記などの文章を読む、体験談を聞く、写真や映像の資料を見る、実際の被爆遺構や被爆者の遺品を見るといったものが挙げられるだろう。そのような伝え方は広島の原爆関連だけでなく、災害や他の歴史など様々な出来事でも取られている、一般的なものではないだろうか。
 そこで個人的な体験の仕方として、僕は広島市内を歩くことを勧めたい。
 1945年8月6日に広島は原爆が投下され、同年中に少なくとも14万人が亡くなり、爆心地を中心に広島市内は広く廃墟となった。そして被爆した建物の一部は今でも保存されている。そして大きな被爆遺構などには、原爆被災説明板という説明書きが置かれている。

 この説明板には被爆当時の様子や被爆以前の様子を収めた写真と、被爆以前の場所・建物の説明、被爆の状況などが書き記されている。

 私が広島に来てしばらくたって感じたのは、この街に普段は隠れているように感じられる、原爆の傷だった。平和公園やその周辺にある複数の資料館は当然その傷を伝え、現在生きる我々があの日何があり、その後どうなっていったのかを伝えるもので、現在の広島とは隔絶されている感がある。慰霊碑から眺める原爆ドームはその象徴のようで、現実空間を切り取り被爆直後の光景を我々の前に立ち現れさせる。

 しかし体験というものは、だいたいは身体感覚からの記憶も必要とするもので、平和公園周辺に行けば体験的に被爆を知れるのかというのは、僕にとって疑問である。

 そこで僕は身体的に被爆を理解する方法の一つとして、説明板を歩くという方法を大事に思っているのだ。平和公園に行き、爆心地である島病院の説明板を見る。そしてどこか出かける目的地に向かう途中に、道中の説明板を見て回るというのが良いのではないかと思う。

 個人的な体験を語ると、平和公園に初めて行った日のことだが、千田から平和公園へ歩いて行き、慰霊碑を通した原爆ドームという切り取られ現れる過去に衝撃を受け、とぼとぼと広島駅へ歩いて行ったことがある。そして商店街を歩いているときにふと、現在から1945年8月6日の連続性を強く認識させられ、なんとも言えない恐怖を半ば強引に感じさせられた。
「あの日、広くこの街で無惨に殺された人がいて、多くの人が苦しみの中歩き回っていたのだ」という恐怖は、ひどく恐ろしいもので、言葉では形容のできないものであった。
 この内から立ち上がる感覚こそ、身体的感覚の伴った記憶として自分の中に残っていくのだろうと思ったし、いまでも今感覚は広島市内を歩いているときに幾度となくフラッシュバックする。

 こんな体験を同じように味わえるとは限らないが、広島で平和公園に行ったついでにでも、原爆被災説明板を読みながら広島市内を巡る、原爆について考えてくれればというのが僕の望みだろう。長くなり、混乱してきたので、今回はここらへんで〆ようと思う。

 次回もまた読んでいただければ幸いです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?