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2025年2月②

2025年2月2日 雪予報だったが雨

前回はほんの“さわり”だけ書くつもりが、思いのほか長くなってしまった。思考の沼にハマるのはたやすい。駄文を並べるのは詮無きこととはいえ、言葉が勝手に転がっていくのだから仕方ない。

この日は夜から雪の予報が出ていた。交通マヒが予想されるということで、いそいそと東京都現代美術館の「坂本龍一展」に向かうことにした。雪が降れば人も減るかもしれない。そんな期待を胸に、開場時間ちょうどに着いてみて驚いた。長蛇の列である。これほどまでに暇な人間が世の中にいるのかと、少し安心し、少しうんざりする。

並ぶしかない。事前チケットは購入していたが、それは「日付指定」のものであって「時間指定」ではなかった。つまり、全員が一斉に押し寄せれば、結局は並ぶことになるそれならばしかたない。寒空の下、黙々と列が進むのを待っていると、僕の前にいた人々の半分以上が「当日券待ち」の列に消えていった。つまり、事前チケットを持っている人間は思ったより少なかったのだ。いや、それならなぜチケットを売り切れにするのか。意味がわからない。まるで映画館のオンライン予約が「満席」と表示されていたのに、実際に行ってみるとガラガラだったときのような徒労感があった。

さて、坂本龍一氏についてである。彼は間違いなく偉大な作曲家だった。世間的にはYMOの「ライディーン」がもっとも有名かもしれないが、あれは高橋幸宏氏の作曲だ。とはいえ、坂本龍一の名前だけでこれほどの人が集まるのだから、その影響力は計り知れない。

では、現代美術としての展示はどうだったか。全体を通して、坂本龍一という存在は“素材”として扱われている印象を受けた。つまり、100%彼の意識を形にした作品というよりは、ダムタイプ的であり、アピチャッポン的であり、真鍋大度的であり、中谷芙二子的であった。坂本龍一が“そこにいる”というよりは、彼の残した音や言葉を、他者がそれぞれの解釈で“形”にした展示が並んでいた。

もちろん、それが悪いというわけではない。むしろ、彼の音楽や思想の広がりを示す意味では正しいのかもしれない。ただ、僕にはどこか「幽霊を見せ物にしている」ような不気味さも感じられた。坂本龍一の痕跡を辿る展示のはずが、そこにあるのは彼の「不在」だった。いや、こんなふうに思うのは、おそらく少数派だろう。

たぶん、雪が降らなかった苛立ち、寒空の下で並んだ焦燥感、そして混雑した空間で展示を見せられたストレスが、僕の視点を歪めていたのかもしれない。あるいは、それすらも坂本龍一という「余韻」の一部だったのかもしれない。


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