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公務員を辞めた(短編小説)

 公務員を辞めた。今日、辞めてきた。そんなに置いていないつもりだった文房具や膝掛けなどの私物を大きな紙袋にぱんぱんに詰めて、中原は駅前通りをゆっくりと歩いていた。

 ちょうどモーニングが終わる時間のようだった。何度かトーストを齧ったことのある喫茶店の店主が、モーニングの看板を店の中に仕舞った。中原はジャケットのポケットに左手を引っ掛けたまま、県庁舎のあった街を去ろうとしている。大きく堅牢な職場のあった街。現在もあるし、今後も庁舎は古めかしく残り続けるはずだが、中原にとってはもう存在しないのと同じようなものだった。

 消失。無職。別にいい。金はないが、これから手に入れればいい。そもそも手取り十五万で副業もできない地方公務員の地位は、俺にとって一体どんな価値があるっていうんだ?

 中原はわかっている。どんな理由があろうとも公務員という立場を捨てるという選択は、周囲のほとんどが反対し非難するだろうということはきちんと理解している。きちんと、というのは行政用語ではないが、もう公務員ではないから使ってやる。中原は誰に対してでもなく別れの微笑みを浮かべた。何も問題ない。

 キンキロキンキロ……という軽やかな着信音の息の根を止めると、「辞めたか?」という友人の声が鼓膜を揺らした。夏祭りの大太鼓が腹に響くような感覚。低い声の主は桂木。学生時代からのの友人だった。

 中原が一言目を発する前に、桂木は続けた。
「車出してるよ。本当にしょうがねえな」
「悪いね」中原は言った。「新橋までは出るよ」
「当然だろ。昼飯に間に合うようにしてくれ」

 公衆トイレが小綺麗なことだけがこの街の長所だった、と中原は振り返る。金がそこそこある街、そこそこの金を持った人間たちが住む街。電車に乗る前に用を足そうとした中原は、駅の手前に小さな公園があったことを思い出し、小綺麗な街にしては珍しく薄暗い路地へと折れた。

 だれでもトイレと書かれたスライドドアを引く。男子トイレよりも大きな鏡がそこにはある。歩きながらヘアクリップに手をやると解けてしまいそうな感触だったので髪を纏め直したかった。

 だれでもトイレには先客がいた。きっと普段はだれでもトイレなんて使わないから、鍵をかけるのを忘れたのだろう。このスライドドアのロックレバーは、注意しないと逆に気がつかないくらいシームレスでジェンダーフリーでニュートラルな鍵っぽくない形だったから。

 黒づくめの大柄な男が一人立っていた。一六三センチの中原が見上げるくらいの背丈だから、一七〇センチ後半はあったのだろう。
 中原の脳は十年以上前に教わったことを急に体に思い出させた。つまり、スライドドアがカラカラと閉まり、男が右手を中原の小さな頭に振るってきた瞬間、中原も右手を男の右腕の内側に叩きつけ、外側へいなした。力が分散しよろめいた男の腹に膝を勢いよく押し込む。スカートの縫い目が嫌な広がり方をしているぞと腿のあたりから信号を受け取ったがそのまま爪先で急所を蹴飛ばした。たまらず前屈みになる男の顔面にもう一度膝を叩き込む。足首まであるスカートが今度こそ断末魔を上げた。

 うまい、と中原はにんまりする。うまくはない、やりすぎだと桂木なら言うだろう。男が頽れた隙にスライドドアを半開きにして紙袋を挟んだ。すぐに男の背後から左手を取り上げ、背中へと捻りあげる。男は腹這いに制圧され動かせるのは膝から下くらいで、半狂乱に暴れているがこの体勢からできることはほとんどない。
「うらやましいよ」
 中原は男に言った。
「こうやって制圧されるのは最高の気分じゃないか? 自分の力ではどうしようもない。もう何もしなくていいんだ。上から被さる暴力が自分を自由にしてくれると思わないか」
 目を白黒させる男には、その言葉の半分すら聞こえなかっただろう。

 中原は左手でポケットからスマホを取り出し、110番を押した。トイレの中にはこれから羽織るつもりだったらしい黒いダウンジャケット、これまた黒いザックが置かれていた。何をするつもりなのかは知らないが、殴りかかってきた男を引き渡すだけで事は足りるはずだ。
「事件ですか、事故ですか」
「事件です。場所は〇〇駅西口近くの公園のトイレです。男が殴りかかってきたので制圧してしまいました。少し心得があったもので」
「わかりました。警察官を向かわせます。怪我はありませんか」
「男が出血しているかも。私は今のところ怪我はありません。お気に入りの服が破けましたが。あの、急ぎの用事があるので引き渡したら行っていいですか?」

 警察署はすぐには中原を解放してくれなかった。連絡先を全部渡すから後日にしてくれとは伝えたし、担当の警察官も一度は頷いてくれたが、中原は中原で男と同じくらい怪しいと考えを改めてしまったようだった。スカートが破れてさえいなければこんなに留め置かれることはなかったと中原は憤慨した。
「いや、我々もあなたの服装に文句をつけたいわけじゃありませんよ。あなたが制圧行為を行なった相手がかなり出血しているもので、何が起こったのか詳しくお聞きしたいだけです」
 そんなの男に訊けばいいじゃないかと思ったが、警察相手にむきになっても時間の無駄であることはわかっていたので、だれでもトイレのスライドドアを開け、男が振り向いてから何が起こったのか詳らかに話してやった。

 巡査がメモを取っている間(ひどい字だった)中原は髪にほとんどぶら下がっていたヘアクリップを手に取り、頭の後ろで纏め直そうとしたが、いつものように髪を挟んでくれない。顔を顰めて手のひらでクリップを転がすと、お気に入りのシルバーの金具が根元から折れていた。ばらっと広がる中原の髪を巡査がちらりと見遣った。別にいいさ、ヘアゴムなら持っている。

「まあでも……やりすぎと言うつもりはありません。実際には必死でしたでしょうし、立ち回りは見事でしたよ。どこで逮捕術を学んだんですか?」
「それはどうも。現役じゃないし警察でもありませんよ」
「そうですか。よくとっさに動けましたね」
 巡査が不信半分、感心半分の顔で頷いた。
「じゃあここに名前と住所、連絡先をお願いします。そういえばこの後はお仕事だったんですか?  用事があって急いでいたって、ああ、いや……」
 ああ、いや、その格好を見るにお仕事ってわけではなさそうですねとでも言いたかったのか、巡査の質問は尻すぼみに消えた。

 渡された用紙にペンを走らせて、書ける住所が今はないと思い当たった。借りている部屋からは引き上げる予定で、次の家が見つかるまでは桂木の家に居候するつもりだった。
「近いうちに引っ越しするので、今の住民票のある住所でいいですか?」
「えっ。まあ、いいですけど。どちらに行かれるんですか」
「ここではないところ」
 今の言い方は反抗的だったなと反省して、中原は言い直した。
「海の近い土地に行きたくて。それで今日仕事を辞めてきたんです」
 巡査は中原を怪しい奴として引き止めるべきか、面倒な奴として放り出すべきか悩んでいるようだった。
「海上保安の仕事で習ったんですよ、あの制圧は。また海で仕事がしたいと思ってね」
「なるほど」
 不信に感心がやや勝った。みじんも理解できない人間はごまんといるが、身元がある程度しっかりした相手だと分かり少し安心したらしい。それが公務員の利点だけれど、現役でなかったとしてもこれだけ使えるのなら、やはり現役公務員なんて辞めてしまって正解だ。

「この街最後の思い出があれになってしまうなんて、なんだか申し訳ない」
「ええ? そんなことはありませんよ。もうここには戻ってこないだろうけど……というか、トイレを借りてもいいですか? もともと公園のトイレを使おうとしたら巻き込まれてしまったもんで」
 どうぞ、と巡査は立ち上がった。
「あ、その……」
「あのねえ、男子トイレですよ。見ればわかるでしょ」
 見てわからないから聞いたんだ、という一言を巡査は飲み込んだ。

 女子トイレを借りたいと言うべきだったか。男子トイレの鏡は小さく薄汚れていた。
「げ、ジャケットまで汚れてる。まあちょっと……顔も汚かったな」
 鏡に映る自分。男だ。だが艶めく髪はひとまず綺麗に括られているし、まつげは黒々とセパレートしている。ジャケットは、少し汚れたがとても美しく中原の上半身を包んでいる。彼は鼻のまわりをパウダーで押さえ、前髪を整えた。

「お世話になりました。何かあったら連絡してください」
 巡査は呆けたように中原を見ていた。どこからどう見ても男が女物のツーピースを着ている姿は変なのだが、その立ち姿には何かしらの説得力があった。女に見えるとは言えない。男とも言えない。中原は自信ありげに鼻を鳴らした。
「ああ、俺、かっこよかったでしょう?」
「は……」
 同意とも疑問とも取れる中途半端な答えを背に、中原は警察署を後にした。
 もう昼時だ。桂木は怒っているだろうが、そしてさらに怒らせてしまうだろうが、破けたスカートを履いたまま新橋へ向かいたくはない。どうせ気ままに車を走らせているのだろうから、と中原は桂木に電話をかけた。世のため人のため働き、傷だらけで県庁という名の宮殿を飛び出した廃太子には、迎えの馬車が必要だろう。

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