精いっぱい生きて、優雅に死ぬ Sarasvathi 2022年1月30日 19:51 質問者: 僕の大切な親友がガンに蝕まれています。病状はかなり進行していて、悪化している状態です。僕に何かできることは、、彼女が病気を乗り越えるために何ができるでしょうか?サドゥグル: 乗り越えるというのは、治るという意味ですか?質問者: そうです、サドゥグル: それとも、穏やかな最期を?質問者: 良くなるためにです、治るために。サドゥグル: 今から私が話すことは、決して、あなたの親友のことを気に掛けていない訳じゃありませんが、人は必ず死ぬということを受け入れてもらいたいのです。そうすると質問は、いつ、どのように、となりませんか?私たちが病気になれば、もちろん、できる限りのことをして命を守ろうとするでしょう。けれど、その限度を超えてしまった時、学ぶべきなのは優雅に最期を迎えることでしょう。病気と闘うのではなく。終わりなき闘いのようになってしまうと、それは悲惨な死にざまですからね。西洋諸国で人々が亡くなる様子は、ひどいものです。85歳や90歳であっても、身体のあちこちに針やチューブが繋がれた状態で、病院のベッドに横たわっている、こんなことは...たとえ2年くらい死期が早まったとして、何がいけないのでしょう?穏やかに尊厳を保って亡くなること、その方が大切なのではないですか?さて、死ぬというのは、あなたの人生の中で、あなたが最後にすること。華麗にいきたくないですか?私たちは人生の一部としての死を受け容れなければなりません。死ぬことを待ち望んでいる、というのではなくて、その時が来れば潔さを体得したいものです。助かる可能性があるのなら、生き抜いていく、それはそれでいいでしょう。けれど、私がアメリカの高齢者施設で見てきたものは、大勢の人が死線を超えて生きている、生命維持装置にただ繋がれているだけで。なんという生き地獄でしょう。彼らにとっても、周りの人にとっても。施設でどのような治療がなされているのか、あなたが実際に見るといい。何のために治療を続けているのか。施設で働く職員たちは、いずれイライラしてくる。患者の身体は徘徊し、頭は全てのことを忘れてしまっている、何も理解できない、全ての感覚が失われているようだ。なぜなら、彼らの死期は過ぎてしまっているのですから。行き過ぎた医療介入がなければ、ある時点で彼らは華麗な最期を迎えられたことでしょう。そうではないですか?もうひと月、もうひと月、あと一ヶ月と、死期を延ばしたところで何になるのでしょう。けれど、生命はそのように汲みとられず、私たちは延命することばかり考えているのです。もし、誰かの身体が衰弱して末期にあるのなら、円満に最期の時を迎えませんか。その方にが納得できるように。「大丈夫ですよ、平気、平気! 私たちみーんな行列に並んでますからね。それにあなた、私より前にいるの? あら、いいじゃないの!」皆さん行列では誰よりも前に居たいでしょう?(笑い声)私は誰かの病気を笑いものにしている訳じゃありませんよ、けれど、私たちは知る必要があるのです。一つのことが終結して、そして次が始まる、それはどこでしょう? いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #インド哲学 #翻訳練習 #死と生 #サドグル #ヨーギ