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ディスカバリーをしたい理由
はじめまして、Mutureのさらしーです。
この記事は、丸井グループ・marui unite ・Mutureの有志メンバーによるアドベントカレンダーに参加しています。 https://note.com/muture/m/m5efe45c5812e
今回はプロダクトマネジメントを推進するにあたって、まずディスカバリーをしなければならない理由をまとめました。
図解がなく文字文字しくて申し訳ないです。前回の記事よりも短く、優しくない文章にまとめました。がんばって読んでください。
サマリー
✅ ディスカバリーはコンセプトを作る仕事。
✅ パターンからコンテクストへ、それぞれの文脈を重要視する社会になってきた。
✅ コンテクストを理解し、パターンを変容させるコンセプトを作りたい。
ディスカバリー – なにを成果とすべきか
簡単な歴史
はじめに、ディスカバリーの必要性を紐解くために駆け足で歴史の流れを振り返ってみたいと思います。
ひと昔前、20世紀は大企業がマーケティングによって需要を計画する経済の時代でした。産業は生産装置によって有り様を定義され、実質的に技術官僚<テクノクラート>によって支配されます。技術は需給を計画するという欲求を生み出し、その計画が世界を支配していたのです。それは同時に仕入先をロックインすることを要求し、製造技術のコモディティ化を遅滞させるものでもありました。
しかし21世紀初頭から四半世紀が経つ現在までに、ブロードキャスト型のメディアからの転換期を迎えることになります。細分化された嗜好に合わせた、より軽快でより小さなサイズの体験価値が配信されるレコメンド型のメディアが主流となったのです。またその前夜の20世紀終盤、情報技術の研究室ではエンジニアがエンジニアのために開発をする自給自足の高速な改善サイクルが回っていました。開発者と実際の利用者の距離が極端に近く、利用者を深く理解しているため、そこでエンジニアは自然にアジャイルであることができました*。
*竹内・野中論文とソフトウェア開発が出会うのはまた別のお話。
結果として情報技術を用いた新たな市場では、これまでは一部の工芸的製品で行なわれていたような高速な仮説検証を繰り返すことを指向するようになりました。ある意味では手工業<クラフト>の再興と解釈することもできると思います。計画ではなく実際の利用者に向かうことの重要性を、自給自足の開発をしていたラボのエンジニア達は良く知っていました。
このように①需給の計画ができなくなったことと、②しかし引き続き実際の具体的な需要に向けて開発をする必要があること、この二つの潮流がアジャイルという信念の歴史的源流だと私は考えています。
設計の設計
必要があっても高速な仮説検証のサイクルはそう易々とは回りません。情報技術によって遠隔でサービスを提供する社会において、実際の利用者を深く知ることは容易ではなかったのです。それどころか利用者はギークな開発者とは似ても似つかない、話す言葉や生活、考え方の全てが異なる人類です。そのような未知の人類を知るための手段こそが文化人類学でありUXデザインであり、ディスカバリーだったのです。どれだけアジャイルソフトウェア開発宣言の原理原則やドッグフーディングが大事だと言われても、実際のところは自分が作った製品を使いさえしない開発者はありふれています。結果としてディスカバリーの機能が零れ落ちてしまったアジャイル開発は、誰のために作るのかもわからないままただ多くの機能を生産します。サービスの利用者がまさに自分自身であり、その事業を理解する優れた開発者を見つけ出すのは、黒い白鳥を探すようなものです。
だからこそまず、ディスカバリーを、実際の利用者の調査と製品の設計をしっかりとすべきなのです。工業デザインや建築設計のように、ただデザインをすれば良い!
……そんな話であればどれほど良かったでしょう。これもまた、そう易々分離できる話ではありませんでした。これにはソフトウェアというプロダクトの性質が関連しています。ソフトウェアやプログラムというのは、それ自体が設計です。ディスカバリーとデリバリーの関係性は、意匠設計と構造設計のように二つの設計が横に並んでいる関係性ではありません。加えて車などの動的なマシンとは違い、物理的な設計は埒外であることがほとんどです。ユーザーの手元にある端末の挙動を設計すること、即ちデザインすることがソフトウェア開発なのであって、製品設計ができることはデリバリーができることとほとんど同義です。結果としてディスカバリーの最終的な使命は良質な設計のためのメタ設計を作ることであり、つまりコンセプトとなるのです*。
*もちろん、ディスカバリーとデリバリーはコンセプトを上流から下流へ流すという単純な分離がされた組織構造ではありません。あくまで主要なミッションの違いであり、実際にはデリバリー機能なしに単独でディスカバリーを遂行することは不可能です。ディスカバリーとデリバリーの汽水域の話は、次回分(12/18)で書けるように頑張ります。
書きました。
コンセプト – 社会の転がる先
パターンからコンテクストへ
もう少し話を広げて、コンセプトが必要になった流れをもう少し広域に考察しておこうと思います。2010年代からの勢いを増した大きな潮流として、パターンからコンテクストへ、という社会的合意があります。文脈から発生したパターンを一般化するのではなく、そのパターンを産む文脈を尊重しながら自己変容のためにパターンを操作する手法が普及の段階に発展しました。これはソフトウェアエンジニアが用いるデザインパターンが、システムに対する汎用的なものからドメイン知識に基くエンジニア自身のコミュニケーションパターンの変容に重心を移してきたことにも表われています。
根源的なコンテクストを尊重しながらパターンを自己変容のために操作するということは、構築主義におけるナラティブ・アプローチに通ずるものでもあります。つまり「語り」という表層的な言語行為的パターンを操作することで、内面的な認知を改変しようという試みです。この試みは個人や家庭から広義の組織システムへの適応という裏舞台を経て、後にパブリック・アフェアーズ(PA)とソーシャルセクターを介した制度設計という形でビジネスの表舞台に登場します。
ナラティブとはストーリーを語ることで形成される「語り手にとっての現実」のことを指し、このストーリーというのは作為的な構造を持ちます。ストーリーは客観的な現実から真実を「選択」し、接続詞によって「配列」することで形成されているのです。この「選択」と「配列」こそがストーリーの構造を司るある種のパターンであり、これを「語り手にとっての現実」を再構成するために逆転的に操作することがナラティブアプローチの機能です。
コンテクストの重大化に関するもう一つのストーリーがビジネスの世界にもあります。政治は戦略に優先するという信念の勃興です。現代の経営戦略はPIMSのようなパターン研究が土台となっていますが、そのようなパターンを逆転的にコンテクストへ作用させようという企業の文脈を重視したステークホルダー主義経営が流行しました。その影響として先述のように、ルールに基づく戦略から、PAによってルールを規定する政治への重心の移動が起こっています。市場を取り標準<de-facto>を規定する流れから、規格<de-jure>を押えて市場を取るという転換です。例としてはダイキンによる冷媒規格の更新や、話題性の大きいところではLUUPによる道路交通法の大幅な更新があります。
余談ではあるのですが、このように法を極端に自由主義的な経済ゲームに資するルールとして扱う潮流に対して明確に異論を唱える勢力も存在します。例えば、ホモ・ジュリディクスを記したアラン・シュピオです。シュピオによる法権利を人間性の基礎とする法の人類学的機能という概念は、経済ゲームを遊ぶホモ・ルーデンスである人類と哲学的二項対立を様しています。個人的な解釈では、上記のように経済のレベルではパターンからコンテクストへの移動が進みつつあるのに対して、政治のレベルではパターンからコンテクストへの移動が起きていないことを指摘するものではないかと思います。
コンテクストとコンセプト
今日、パターンはいうなれば還元主義のような収束を迎えつつあります。超ざっくり言えば理系から文系へ、左脳から右脳へ、みたいな感じです。パターンの衰退に相関して重大化していくコンテクストに対して、社会には大きくふたつの方向性があるのではないかと思います。ひとつはコンテクストを紐解きしっかりとコンセプトを作ること、ひとつはコンセプトで作らず量で合意することです。これらは1か0かの明確な区切りがあるものではありません。例えば社内で複数チームによるコンペティションを行う場合は両者のハイブリッドになります。後者のコンセプトをあまり設計せず量で合意するような手法は、生成AIの台頭によって量を作るコストが大幅に下がり、徐々に頭角を表わしつつあります。生成技術を活用した超短期型且つ並行のデザイン・スプリントを大量にやるようなもので、時にDesign-Build手法を逆転させてBuild-Designと呼ばれます。
前者のように丁寧にコンセプトを設計したいと思った時、まずはコンセプトがなにによって構成されているのかを知る必要があります。コンセプトは知的存在であるのと同時に心的存在でもあります。そして知的機能は「帰納/演繹」「分析/統合」「定量/定性」で表現されるような関数的機能と、現実世界との接続点である文脈的機能があります*。文脈的機能というのは例えばウィノグラードの言うところの共感領域や、シンガーの拡大する輪のような概念で、コンセプトの土台として存在しています。換言するなら、感性や土着的な思考の土台として、生命として進化心理学的に組込まれた文脈や後天的に社会から受け取る文脈が存在するということです。
*いわゆる関数型プログラミングの概念を知っている方であれば、この分離がモナドの概念と同じものであることが伝わるかもしれません。
このような文脈は情緒的で土着的な知性を構築し、そこにパターンが発生します。この根源的文脈を知り効果的にパターンを変革しうるコンセプトを打ち出すことができれば、どうやらプロダクトは対象にインパクトを与えることができそうです。つまり土着的な文脈を理解し、それをアップデートしうるようなコンセプトを打ち出すことがプロダクト・デリバリーの前にすべき仕事なのです。
Mutureという会社は、日本を代表する企業とソーシャルセクターの組織変革に向かう組織です。そのようなレガシーを持つ企業や地域自治的機能を持つ組織は独自の文化土壌を持っていますし、ブティックやスタートアップのような同職種・同質的な組織でもなく、複雑な社会を形成しています。
例えば丸井グループには共創というキーワードの元に複雑な関係性がありますが、このキーワードは月賦商という出自に強く由来するものだと私は考えています。月賦は、頼母子講や無尽講と呼ばれるような仲間内での共助での出資の仕組みをルーツとして持ちます。この「講」が地域の互助会ではなく小売の商売に組込まれることで月賦商という商いが成り立っていきます。ここには地域の互助会のような共助の文脈・組織の記憶が強くあり、それが共に創るという豊かな土壌に繋がっていくように見えるのです。これは形を変え(変容し)、今も商品や施設の開発におけるお客様、地域の皆様との共創として受け継がれています。
いろんな土壌と環境で、あなた達だけの音楽が生み出されてるんでしょう?
コンセプトとディスカバリー
どうやら作るべきものがコンセプトであることの蓋然性は十分に高そうです。ではどのようにステークホルダー(ユーザー)を知り、コンセプトを構築していけば良いのでしょうか。
調査
文化人類学に習えば、まず重要な点は我々がユーザーや環境、自分自身(の会社のオペレーション)について何も知らないことを認めることです。直感や信念は時に現実の正しさを凌駕しますが、それは世界を曖昧に認識することを肯定する材料にはなりません。直感や信念による仮説はあくまで仮説でしかなく、ディスカバリーが一旦終了しデリバリーに主導権が渡るその時まで訂正可能なものであるべきです。また仮説は畢竟プロダクトのメトリクスによって証明されるものなので、ディスカバリー活動によるサンプル調査を証明された事実として受け取ることもまた早計です。
とはいえディスカバリーの中でユーザーに対する仮説の確度を上げていきたいのは疑い様もない事実でしょう。デスクでできる調査を超えて確度を上げるために我々は、ビルの外に出てユーザーに会う必要があります。もちろんビルの外に出るというのは比喩表現であって、プロダクトによってはユーザーをオフィスへ呼び出すことも可能です。しかしこの場合、オフィスは多くのユーザーの日常からかけ離れた環境であることには十分に注意しなければいけません。日常性が重要な場面では、ユーザーと対面しないカルチュラルプローブのような手法もあります。またコロナ以降、オンライン会議の文化が定着してからはオンライン上でN=1検証をする機会が爆発的に増えました。ただしこの手法は基本的に上半身のみの観察で、インタビューという形にならざるを得ません。フォーカスグループに関しては、グループシンクや社会的望ましさバイアスの強さから一切認めないデザイナーもいますね。単一の手段を振り回すのではなく、これらのような手法の組み合わせによって仮説の確度の上がる程度を見積った上で、適切な手段でユーザーに会う計画づくりができるのが理想でしょう。
解釈
ユーザーに会うことによって得た情報はコンセプトになるまでに解釈され、抽象化されなければなりません。ここでまず重要になるのが真の多様性を信じることです。ペルソナを作ることではありません。人はあまり多様性や並行で起こる文明の進化を直感的には理解していないようで、少し気を抜くとすぐさま進歩史観に陥ります。例えそこに倫理に悖る現実があったとしてもその文化にはその人々の合理があり、それを否定することになんの意味もないのだということを深く胸に刻まなければなりません。例えばセルフレジに対する拒絶をただテクノフォビアだと切り捨てて見下していてはサービスは普及しません。ユーザーの現実を否定したコンセプトを基に作られたプロダクトは、ただただ使われなくなります。反対にその人の合理を紐解くことができるのであれば、ユーザーの現実を変革するようなコンセプトを練り上げることができるかもしれません。
構造主義思想の祖であるレヴィ=ストロースによれば、変化の中で不変であるものこそが重要なのだそうです。一見共通点のない集団の間に不変のもの、すなわち構造があるのであれば、そこに共通の需要を見出すことができます。つまりセグメンテーションです。しかし全ての不変性に需要の鍵があるわけではありません。不変のものには土壌となるコンテクストと硬直的怠惰のコンテクストとしてのドグマが存在します。土壌的コンテクストは需要の種になりうるものである反面、ドグマは変革の対象で破壊的イノベーションの種です。ある不変がどちらに分類されるかは時代の変化に左右されます。時代に取り残されるのであればそれはドグマであり、時代と接合できるのであればそれは土壌的コンテクストです。このようにコンテクストによってセグメントを形成することで、仮想的ユーザーとしてのペルソナを構築することができます。そして深いユーザー理解はドグマという一般的に不可能と思われていたユーザー行動の変容を可能にし、高い参入障壁を築き上げます。
結びに
このようにしてプロダクトを作る人はユーザーの現実を理解する必要があります。しかし実際の業務はどうでしょうか。ナレッジワーカー、いわゆる現場に相対する言葉としての「本部」はユーザーの生きている現実と同じ世界を生きているのでしょうか。今週どれほどユーザーに会ったのでしょう。まったく会えていなかったり、逆にリサーチチームがやっているので自分は把握していなかったりしないでしょうか。会っているとして、それはどのような仮説に基くもので、その仮説の確度が高まることでどのような価値に繋がるのでしょうか。正直に言えば、私はまだまだできていないことばかりです。それでもここまでに述べたような信念から、ディスカバリーを機能させる必要があり、それが向うべき先だと考えています。
前置きが長くなりましたが、次回(12/18)に実際に私がディスカバリーを進めていく中でのつまずきや現実について本文を踏まえて改めて記録を残したいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
↓書きました。
スペシャルサンクス
Muture前代表のばおさん、執筆の燃料にとても美味しいコーヒーをありがとうございました。