【普通】を疑うことの罪

「当たり前を疑おう」「普通なんてないさ」
各所でそう叫ばれはじめて、声をよく聞くようになってしばらく経った。

自分自身、「普通って何」をテーマに日々悶々と考えている。
ただ、いろいろ考えたり、議論や愚痴などを見たり聞いたりするたびに疑問が出てくる。

【「普通」を疑われた人はどうすりゃいいんだ?】

「普通を疑おう」という話題が出るのは、つまりは「普通」ではない出来事に遭遇している当事者や、経験者、その周りの人たちが多い印象がある。
今の世の中に何ら不満がなく、あるいは不満を享受できていて「そこそこ幸せ」である場合は、フワフワとしたモヤモヤのなかで「普通って何だろうなぁ」と思うことはあるかもしれないけれど。

「普通を疑おう」と叫ぶ人たちは、「普通」の人たちを変えようとしてるのではないだろうか。
マイノリティを認めろ、受け入れろ、と多数派に訴える。

SNSなんかを見ていると特にそう思う。


普通の人たちに「もうそんな時代ではない」と。見聞きした海外の事情や取り組みを紹介した記事をニュースを。「日本は遅れている」とばかりにドヤと見せつける。

普段自分に都合の悪いニュースを拒絶したり、フェイクニュースを吹聴したりしているのに。

自分で判断をする、というのはとても楽だ。ただしその反面、間違った判断をしてしまうことも当然ある。
自分の判断に固執してしまうこともある。「いや、これに間違いはない」と言い切ってしまう。思い込んでしまう。
その判断は間違っていないかもしれないし、あっているかもしれない。でもそれは結果論。宝くじの当選番号の占いとさほど変わらないと思っている。「3の倍数が当たりやすい!ってここの記事で言ってた。試しに買ってみたら当たった!」みたいな。
言い切ってしまえば「その人が幸せならそれでいいけど、その判断や価値観で人を無理やり動かそうとする傲慢さ」はいかがなものか。
自分が感じている、感じた「生きづらさ」を今度は自分が主語となってばらまくのはとんだブーメランだろう。

かつて自分たちを苦しめた人たちを「普通」を疑うことで苦しめる。

世界から差別がなくならないわけだ。

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