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はっきりしない

「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」を読み進めている。

葛藤や苛立ち、なんていう言葉でまとめるのは冒涜とも言えるような言葉がつらなる。

『「子どもは学校に行くのがあたりまえなんだよ」「みんな少々いやなことがあってめ学校には行くもんだよ」
そんな答えは、聞き飽きた。
「いやだったら学校に来なくてもいいよ」と言う人もときどきいるけど、そういう問題ではないのだ」(本書より)

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マイノリティと言っても自分にあるのは先天性の小腸疾患であり、内部障がいであるけど、それは[自分]というもの。
マイノリティそのものを語るのは驕りだ。とてもじゃないが、マイノリティなんていう大きなものを自分のこととして語ることはできないし、そんな資格もない。

僕がマイノリティについて語れるのは、あくまで自分のこと。
だけど、マイノリティについて語る。
マイノリティは俺のものや!俺こそマイノリティや!お前らなんかに俺のマイノリティ渡さへんで!とでも言うように、マイノリティ=自分、として語ることもあるし、語られることもある。

自分をマイノリティ(カテゴリー別も含め)と認めることは、自分を名づけることであり、自分の軸になりやすいし、語りやすい。
軸になりやすい概念は、いろいろなものを根こそぎもっていく。

自分について語ることは、自分を認めることじゃない。
自分の肩書きや軸について語り続け、自己分析と自己批評を繰り返すことでは、面接は通らない。

もう、その域はとっくに抜けてるはずなのに、自分について語ることが自分にできることだと思い続ける。

「今は準備段階」「エネルギーを溜めている最中」
キラキラはできない。
キラキラは眩しいから。自分には合わないから。

だけど、ふとしたとき。
あっ!とも言えない瞬間に。
一瞬だけ、ナニカが見えることがある。

そういえば最近、自分について考えることが減った。

案外、そんな時なのかもしれない。

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