私にやさしいのは「分かってくれる人」じゃない
「私のことを分かってくれる」人は、実は私に優しくないかもしれない
と言ったら、どんな風に思うでしょうか。
思春期以降、「私のことを分かってくれる人」のことが大好きでした。
あまり自分の本質を表に出さずに日々を過ごしていたので、
親さえも誤解している「私」のことを「正しく」見てくれる人は本当に素敵に見えていました。
実際、その人たちは本当に優しくて賢くて気持ちをくみ取ってくれる。
悪い人では、もちろんありません。
だけど、その人たちにともすると依存しそうになる私を見つめ直して、あることに気付いたんです。
誰かに分かってほしい私のことって、「私が定義したこう思われたいという私」のことなんじゃない?
そしてその私を分かってくれる人に引き寄せられる気持ちは、
誰かに認めてもらうことを目的にした承認欲求なんじゃないかしら。
もし、私が「私のこと」を受け止めて認めていれば
誰かにわざわざ「分かって」もらう必要はないし、
「分かってくれる人がいる!」という状況に期待しすぎる必要がなくなります。
いつも私と同じ意見じゃなくても、不安になったり怒ったり、することがなくなります。
だとすると、最初に必要なのは、私が「私について知る」ことなのかも?
必要なのは、私を縛ってきた(かもしれない)定義づけを、外から承認してくれる人じゃなくて
自分で自分の定義を広げたり新しい要素を見つけたり、することかもしれない!
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誰かに分かって欲しい「私の要素」は、
・自分への決めつけや呪い であったり
・誰かが察してくれるのを期待していたもの であったりするのかなと思います。
別の視点から見ると
・他の素敵な要素に気付くことを拒否してきたもの であるし
・ただ自分で自分のことを知ってもらう努力をしなかったもの でもあるでしょう。
自分が変わらないまま、他人に認めてもらうことを知らず知らず目的にしていると
その人が自分の望み通りの「答え」を言葉にしてくれる時はいいけど
そうじゃない発言があった時に「なんで!?分かってくれないの!?」と落胆が大きい。
他人への期待は自分についての不安から大きくなるので
自分のことを自分で認められないうちは、他人に気付いて認めてもらいたい気持ちが膨らんでいきます。
だけど相手は私のロボットではないから、思い通りになることもならないことも、あるでしょう。
思い通りにならないがっかりさを抱えたまま、人間関係を続けていくのは
なかなかにしんどいんじゃないかなぁと想像します。
だから、私は私のことを「今は」こう思っているんだー(この先はわからんけど)っていうのを
一度、大切な人や信頼できる人に、出してみたいんです。
その結果、相手から出た反応をもとに、私は私の情報をアップデートできるんじゃないでしょうか?
へぇー知らなかった!こういう感じだと思ってたよ?
そうなんだね、ちなみにこんな素敵なところもあるよ。
そんなことないんじゃない?こんな風に見えるけど。
色んなこたえが、あると思います。
その刺激を利用して「へぇ!そうなんだー知らなかった!」って、新鮮な自分像を受け止めていくことは
いつも新しくて魅力的な自分に出逢い続けられるってことかもなって思うんです。
別に、無駄に否定してくる人やとんちんかんなほど合わない人といたらいい!というのではなく
フィーリングが合う、気の合う人といる中で
「あ、この私についての定義は新しいかもしれない!」を見つけるきっかけがある
そういう関係を作っていることが、本当に私に優しいことかもしれないなと、思っています。
読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!