迷惑かけたくない。その感情の裏側は? 『ケアしケアされ、生きていく』を読んで
「迷惑かけるな憲法」。
著者の竹端さんオリジナルのこの言葉が
本書のキーワードでした。
言わば「迷惑をかけて当たり前」の幼少期に
周囲の「ちゃんとしなさい」「迷惑かけないで」という声にさらされるうち
冒頭の「憲法」を自分に内面化してしまう人は多い。
「迷惑かけるな憲法」は、
絶対的なものとして社会に君臨してしまっている。
「迷惑かけるな憲法」…これ私自身、
思い当たる節が、ありすぎるのです。
例えば、つい先日もこんなことがありました。
4歳の子どもと公園に行って
ボールの蹴り合いをしていたときのこと。
息子はまだ
まっすぐ蹴ることができなくて
何度蹴ってもあちら側で野球のバッティング練習をしている
父子(お子さんは小学校3〜4年くらい)の
ところに転がっていってしまう。
そのたびに、親子の練習がちょっと中断される。
私は毎回「すみません」と謝る。
このときの私の頭の中は、
「ああ、練習の邪魔しちゃってる」という
考えでいっぱいです。「迷惑かけてる」と。
だから子どもに
「そっちに蹴ったら邪魔になっちゃうから、まっすぐ蹴ってね」
とか言っちゃうわけです。
でもね、相手は4歳ですよ。
「迷惑になるからまっすぐ蹴りなさい」(→意訳です)
って何なんだ?
そもそも公園はみんなの場所で、
野球の練習がえらい、とかない。
忖度して蹴って、気を遣って遊んで、ってどういうことだ。
今、振り返れば自分がおかしなこと言ってるとわかります。
でも「迷惑かけるな憲法」に染まりきった私は
その時、その場で
「邪魔しちゃってる」ことに耐えられなかった。
自分の子の姿よりも
遊びを楽しむことよりも、
相手に迷惑をかけていないか、
それによって自分が母親としてどう思われるか、
ばかりが気になっていた。
一方の息子は
ボールがあちらに転がるたびに
笑いながら追いかけていて
遊びそのものを全身で楽しんでいたわけです。
母(私)とは、あまりにも対照的で
「憲法」を内面化した自分がさらに際立つ……
子育てをしていると、
こうした自分の「影」の部分を
突きつけられることがよくあります。
「迷惑かけるな憲法」は
自分は我慢して相手を優先する、
というマインドの表れでもあるんですよね。
これに偏れば明らかにヘルシーじゃない。
その事実に、子どもが気付かせてくれた、とも言えます。
そう思うと、
子どもに感謝の気持ちさえ湧いてくるのです。本当に。
だから、本書のタイトルの通り
人は「ケアしケアされ、生きていく」んだなと実感します。
ケアは「弱者のための特別な営み」じゃない。
一方通行じゃない。
ケアする人は、同時に相手(育児なら子、介護なら高齢者)から
「ケアされている」んですよね。