息子を撮らない私。撮れない私。
前から疑問に思っていた。何故私は息子の写真を撮りたいとそんなに思わないのだろう。娘の時は何をさて置いといてもまず「撮る」自分がいたのに。
息子の写真は、何処かで、オットが撮るんじゃないかと思っていた。
私はもう、娘でやり切った、という気持ちが何処かにあった。
それは、ほんとにもう、どうしようもないくらい、あった。
最近、ようやく、撮り始めるなら今のうちだよ、という気持ちが湧いてきた。遅いのだが。でも、それが私の「ほんと」だ。
私は彼の裡に、自分を加害した人間と同じ性が宿っていることを見たくなかったのかもしれない。カメラを構え、カメラを通して見ると、どうやっても彼の性が際立って見えていた。彼を産んだ直後から。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、それもまたほんとで、私はその、彼の裡に宿る性を、あまり見たくなかった。考えたくなかった。好き好んで触れたいと思えなかった。
いや、彼はどうやったって、男で、男児で、当たり前にそこにいた。
だからこそ余計に、私は、彼を、男の性で、あまり直視したいと思わなかった。
彼を彼とだけ見るにはどうしたらいいんだろう。
男の性が色濃く見えてしまう自分の眼は、どう考えても色眼鏡をかけてる。そう思えた。
だから、彼を、かつて娘を撮っていた時のように撮れない自分が、いた。
最近、彼に、反抗期の兆しが見え始め、ほっとしている自分がいることに気づいた。何故ほっとしているんだろう。考えた。まだはっきり答えが見えたわけじゃないけれど、でも。
なんというかこう、ほっとしている自分をじっと見つめて、考えたのは。
産まれたばかりの赤子に男の性を見、あどけない幼児に男の性を見、まだ少年としかいいようのない天真爛漫な男児に男の性を見る。そういう自分が、赦せなかったのだな、と。そのこと、だ。
何故私はあんなにも、息子の、男の性を嫌悪し、恐怖し、脇に追いやろうとしたのだろう。
やはりそれは、自分の、性暴力の被害体験がモノを言っているんだと思う。
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