国際開発のキャリアの原点はタイの女の子
私が国際開発の分野に進みたいと思ったのは進路を考え始めた高校の頃でした。色々な経験や環境がこの選択肢にたどり着くきっかけとなりましたが、一番大きかったのはタイのフォスターチャイルドのアムジェイちゃんとの10年に渡る文通です。ここではその原体験、そしてそこからアメリカの大学留学に至った経験をシェアします。
プラン・インターナショナルというNGOで翻訳ボランティアをしていた母が「子供達にも自分達の住む日本以外の世界があることを知って欲しい」と思い、私の家族はプラン・インターナショナルを通じて、タイのコンケーンの、とある村に住む1歳年下のアムジェイちゃんをフォスターチャイルドを支援することになりました。小学校の頃から約10年間、私は毎月アムジェイちゃんと文通をしていました。
今ではコンケーンも発展しましたが、当時は舗装無しの赤土の道路で覆われた貧しい村でした。ほぼ同い年なのに家にはトイレがなく、ヨレヨレのTシャツを着て、学校にも行けず、出稼ぎで両親が長い間家を空けておばあちゃんに育てられたアムジェイちゃん。写真で見る彼女の表情は笑顔ではなく、寂しそうな暗い印象でした。生まれた環境が違うだけでこんなに私と生活環境やオポチュニティが異なるかと感じ、何か自分にできないか、という思いが、いつも心のどこかにありました。
プラン・インターナショナルはコミュニティに投資するアプローチで、アムジェイちゃんの住む地域の開発を手助けしていました。文通の年数を重ねるごとに、アムジェイちゃんの生活環境が改善していくのが分かりました。コミュニティに井戸を作り、水へのアクセスを可能に。学校および保健所を作り、教育・医療サービスへのアクセスも可能に。それにより、子供が水運びの手伝いをする代わりに学校に行けるようになり、地域の人々も自立できるようになりました。アムジェイちゃんの家にもトイレができ、着ているものもだんだんと改善していました。
アムジェイちゃんが18歳になり、私達の支援が終わる頃、私は大学1年生でした。折角だからということで、家族でアムジェイちゃんの住む村に訪れました。彼女の村では養蚕が行われていて、その糸で作られたタイシルクをプレゼントしてくれました。看護婦さんになって人を助けたいと言っていたアムジェイちゃんだったので、希望に満ちている子かな、とイメージしていましたが、やはり昔から写真で見ていた寡黙でシャイなアムジェイちゃんだったのが印象的です。「好きなことは何?」と聞いたら「テレビを見ること」と言っていたのも私は記憶に残っていますが、確かに何もない村ではテレビで他の世界のことを知るのは楽しみなのかもしれない、と思いました。この文通、そしてアムジェイちゃんを訪問する経験を通し、私は途上国の開発に関わる仕事をしてアムジェイちゃんのような子を助けたいと思うようになっていました。
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