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【小説】屋上の神さま
何故この場所にきたのか覚えていない。私は、ギャアギャアと泣きわめく我が子を腕に抱いて、ただ、ここにいた。
いつからここにいるだろう?
30秒かもしれないし、1時間かもしれない。もう、時間なんかなんの意味もない。
逃げたい。
もう、なにもかもどうでもいい。
子どもって、かわいいんじゃなかったっけ。ふくふくのほっぺたはバラ色で、手のひらをちょん、とさわるとぎゅっと握ったり。
SNSでみんなが幸せそうに子どもをだっこして写真をアップしてるのに、私も憧れていた。すやすや眠る赤ちゃんと、優しい笑顔でだっこする私。
・・だとしたら、この一日中泣き続けるこの子はなに?
写真だって、もう撮る余裕もない。
ベビーベッドも、一番ランクの高いやつを母が送ってくれた。母もまだ九州で仕事をしているので、このご時世なかなか孫守に来れないからせめても、との母の日気持ちはありがたかった。
だが、ベッドはほとんど使われていない。この子は寝かせればとたんに泣くからだ。
今日も、私が布団で寝れたのはトータルしても2時間くらいだった。あとはずっと、この子を抱いて座ったり、立ち上がったり。
シンクにはお皿がたまり、洗濯機も2日回してない。夫は・・昨日は帰ってきていないようだ。保険代理店の営業マンである夫は、結婚前から月の半分くらいはマーケティングのために関東に出張する。
その習慣は崩したくない、と結婚するとき夫から言われていた。私たちは職場結婚だ。私もかつては外回りをしていた。事情はわかる。
どうしても若手No.1の憧れの彼を射止めたかった私はもちろん、と頷いたが、子どもを身ごもり、出産してからも夫は見事にスタイルを変えなかった。
どんなに子どもが泣きわめいても自分の出たい時間に家を出て、帰りたい時間に帰ってくる。
ちょっと子どもを見ててほしい。久しぶりに美容院に行きたい。ううん、せめて30分でいいから駅前のカフェでぼーっとしたい。
私のLINEに、彼は「ごめんいま横浜だから」「お土産買って帰るよ、無理しないでね」とピースサインの自撮りでどこかのお洒落なお店で撮った画像で返す。
夫の笑顔は充実している。いい契約をもらったのだろう。そして、「無理しないでね」の文面に気持ちはまったく入ってない。
私が無理しなければ誰がこの子の面倒を見るの?妊娠したのは私の勝手とでも言いたいの?
ふと、テーブルに彼の契約用のパンフレットが置いてあるのに気づいた。いつもは気にならない、どこかの会社の学資保険のパンフレット。
表紙が若い夫婦と赤ちゃんだったからか、妙に気になった。ついつい手にとってしまう。
ーお子さまの健やかな成長のために、パパとママの安心をかたちにしますー
そこにあったのは、よちよち歩きの子どもを見守る、幸せそうな家族の絵だった。妻はゆるくカールした髪、メイクもちゃんとしている。私みたいに、髪はぼさぼさ、二日間同じパジャマのままではいないだろう。
夫も妻のとなりで優しそうな笑顔で子どもを見つめている。
もちろん、この人たちは役者さんであり作り物だ。客にイメージさせる「モノ」でしかない。
だが、夫がどんな顔をしてこのパンフレットを客に見せているのかを想像したら、私の心はざわざわと騒いだ。
この写真に、お客の家庭に、自らの家庭を重ねて考えたことが一瞬でもあるのか。
そして、私の足元にヒラリと落ちた、一枚の写真。
イベントの写真だろうか、社名の入ったウインドブレーカーを着た夫が、2歳くらいの女の子を笑顔で抱っこしている。
私のざわざわがそのとき、ばん、と弾けたのだ。
私だけが我慢をしなくてもいいはずだ。この子は夫の子でもあるはずなのに。
「あー、赤ちゃん!かわいい!」
後ろから突然発せられた明るい声に、私はふっと我に返った。風が強い。体がつめたくなっていた。
小学生の姉妹だろうか、ぴちぴちと生命力に満ち溢れた女の子がふたり、寄り添うように笑顔で立っていた。女の子たちは、暖かそうなフリースの上着を着ている。彼女たちの格好に、いま季節が秋から冬に向かっていることを思い出す。
「わー、赤ちゃん、わたし初めて見たかも!」
妹だろうか、背の小さいほうの女の子がきらきらと笑って駆けてきた。
「アンタだって前こうだったやない」背の高い姉が大人びた口を利く。
「そんなんしらんもん!」妹はべえっ、と舌だし、またきらきらした目で、抱っこされている子どもの足をさわる。
「あ、ちょっと足がつめたいわ。おねえちゃんがあっためたげる」
妹が両手で子どもの足の裏をそっと包む。ギャアギャアと泣いてたはずの泣き声が、しん、とやんだ。
え?
「あー、泣きやんだ!かわいいねぇ」
「あんたが力任せに握ったからびっくりしてるんよ」
「そんなことないもん!」
年端のいかぬ女の子たちの突然の明るい波動に、私は声も出ず、ただ彼女たちを見つめるだけだった。
「子育て中の母親は屋上に登るなって、うちの実家でうるさく言われたんです」
また違う声がして、振り向く。
私より10くらいは上だろうか、落ち着いた笑顔の女性がそこに立っていた。この子達の母親だろうか。姉のほうがこの女性には似ているかもしれない。
「誰でもね。ふっ、と魔がさすんですよ」
ああ、この人は私のことをわかってくれているのだ。
私の孤独も、この子の、泣くことでしか表せない、どうしようもない居心地の悪さも。
突然涙があふれてあふれて、止まらなくなった。しゃくりあげて泣いた。姉妹がびっくりしてこちらを見ていたが、止めきれなかった。
わーんわーん、と私のぶざまな泣き声が夕空へ響く。
泣くのなんて、いつ以来だろう。
姉妹の母親は、ぽんぽん、と私の背中を叩いて、いたずらっぽく笑った。
「ほら、もうね。悪いものはこれで落ちました」
「あ・・はい・・」
「おかーさーん、今日シチューね!にんじんは少なくね」
妹が母親に甘えて腰に手を回す。母親も優しい笑顔でその手を握る。
「はいはい、じゃ、帰ろうね」
3人が階段口のほうへ向きかける。
「あ、あの!私のためにわざわざ来てくれたんです・・か?」
もっと感謝を表す言葉があるだろうに。とっさにでない語彙力の低さが嫌になる。
母親は困ったように、笑った。
「赤ちゃんが助けて、言うとった」
口を開いたのは、姉のほうだった。じっと私の目を見ている。
「え?」
「ああ・・ごめんなさいね。私もね、下の子がまだ小さい時、同じことがあったんですよ」
母親は恥ずかしそうに話し出す。
「この子たちの父親、事故で亡くなったの。私、下の子は生まれたばっかりだし、親も疎遠で頼れなくてね。どうしていいかわからなくて」
姉のほうが、ふっ、と母親を気遣うような視線をなげた。
「その時ね、あなたみたいに屋上でじいっと下を見てたの。下の子を抱っこして、片手で上の子の手を繋いで。
・・今みたいに冷たい風が吹いててね、寒い思いをさせてしまったわ。あなたの赤ちゃんの泣き声を聞いて、この子がその時のことを思い出したみたい。それで、とにかく屋上に行こう、って引っ張ってこられたの」
母親がゆっくりと姉の髪の毛をなでる。姉は誇らしそうに、笑顔になった。
「赤ちゃん、一生懸命ママを助けて、て言っとった。気づいて、気づいて、って」
姉がまた私をじいっと見る。
その澄んだ目に、取り込まれそうになる。
助けられたのだろう。
私は、この少女たちに。
「さっ、帰りましょう。このままじゃ風邪ひいちゃうわ。さあ、赤ちゃんも泣き止んだわね」
三人は明るい声で階段を降りていく。
私は、もうここには二度と来ないだろう、と何故か思った。
「あの、ありがとうございました!」
後ろから声をかける。
「あのね、きついときは赤ちゃんといっしょに泣けばいいのよ!」
階段を娘たちに手をひかれて降りながら、母親が笑顔で叫ぶ。
ふと、腕の中の子どもを見ると、今まで見たことのないような、しあわせそうな顔で眠っている。
屋上に、さあっと強い風が吹いて、なにかが空へと飛んでいった気がした。
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