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自分の機嫌くらい自分で取れ

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子さんの詩がある。

小学生のとき、この作品を教科書で読んで私は衝撃を受けた。

詩というものは、「クラムボンが笑ったよ」的な(これは詩ではないけど)
やさしくて、きらきらでふわふわの綿菓子のようなものだと思っていたのだ。

全く余談だが、そのときクラスの男子どもは、高村光太郎さんの「道程」に鼻息あらく「ドーテイだ!スケベだ!わーい!」と興奮していて、
そんな男子どもを横目に、少女ピリカは茨木のり子さんのきびしくも凛とした世界にどっぷりつかった。

以来、この詩は私のバイブルとなった。


私は、わりと高齢の両親のもと一人娘として育てられたせいか、なにかとわがままだった。

なんというか、頭でっかちでプライドが高くものごとを自分のなかだけで考えて、世の中を知った気になっている子供で、

そういう気質は今もなかなか完全には抜けてくれない。

自分を律することができているときは、社会人としてそれなりにコミュニケーションを上手にとることができる。

だが、たとえば生理前の苛々や心配事があるときなど、自分に余裕がないときは人にやさしくもできない。

そして、幼少のころのわがままな自分が顔をだしてしまう。

「大丈夫?」と心配する夫や息子に「別にいいから」「一人にして」と素っ気なくしたり、ほんとになんというか、子どもじみた振る舞いをしてしまう。

こういうときにいつも、この詩を思いだして自分を叱るようにしている。

「自分の感受性くらい自分で守れ」=「自分の機嫌ぐらい自分で取れ」と私は解釈しているのだが、

自分や家族を大事にできない人に、他人が大事にできるわけがない。

自分をここちよくできてこそ、他人にこころの玄関を気持ちよく開けることができるのだろう。

今日も夕方、仕事から帰ってきた長男に、ちょっとぶっきらぼうに接してしまった。

あとで後悔するのだが、疲れてるときはついつい出てしまう。
長男だって、仕事で疲れていただろうに。


女性ホルモンのバランスとはいえ、「なんとなくイライラ」が最近多くなった。

この「なんとなく」がよろしくない。目に見えた問題ではないため、解決しにくいからだ。


自分の機嫌ぐらい、自分で取れ。

そう思って、いまnoteを書きながら甘いミルクティーを飲んでいる。ちょっとお腹のなかがほんわりする。


きっと、こういうことだよな。

自分を快適にする術を、もっと私は身に付けよう。

それがひとを快適にする一歩だ。








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