
手段ではなく目的としての「あやす」
最近ちょっと笑うようになったね。お母さんがいっぱいあやしてくれてから、表情が豊かになった気がする。
夫にそう言われて、ハッとする。
見ると確かに、お子は夫の膝の上で口角を上げて嬉しそうにゆうらり頭を揺らしている。全然気がつかなかった。こんな顔、初めて見た。あんぐり口を開け、多少の嫉妬心さえ感じながら、ぐるぐると恥ずかしさと悔しさがこみ上げてくる。
こんなに長い時間一緒にいるのに、私は一体この子のなにを見ているのだろう。
ひとしきり落ち込んでから、今までの自分の過ごし方を振り返ってみる。すると、
泣いている → オムツ、授乳授乳授乳、時々ミルク
泣いていない → よし、自分のことできる!
こんな風に泣いているか否かの二択で赤ちゃんを見てしまっていた自分に気づく。正直、産院で働いている時も、そんな感じで赤ちゃんを見ていたなあと痛感する。
産後1ヶ月を過ぎ、そろそろ動き出さねばという前のめりな気持ちと、思った以上になにもできない現実の狭間で戸惑っていた。赤ちゃんが泣き出してしまうと、家事ひとつできず、トイレさえ行けない。膀胱は常にパンパンだ。そろそろ社会とのつながりも少しは持ちたい云々……
そんな日々の中、赤ちゃんが落ち着いてくれたら、待ってましたとばかりに他のことをしていた。
おっぱいがあるということは、ある意味最強だとも思う。泣いたときに、とりあえずくわえてもらえば一時的には落ち着いてくれるからだ。だからこそ、おっぱいという選択肢がない夫や母は、それ以外の方法で泣いている赤ちゃんを泣きやませようとして、あやすのだろう。いや、必ずしも「あやす」は手段ではない。母も夫も、泣いていない時間にもたくさん話しかけて、「あやす」こと自体を楽しんでいた。
おっぱいに甘んじていた自分が恥ずかしくなる。赤ちゃんとの時間をただ楽しめばいいだけなのに。
落ち込む私に夫が言ってくれた一言に、なるほどなと思った。
本当にやらなくちゃいけないことなんて、実はないと思うんだよね。
確かに、私が血眼になってやろうとしていた家事も事務仕事も、できたらベターぐらいのことで、できなくたって死ぬわけではない。それよりも、毎日20g以上の驚異のスピードで大きくなって、日々変化しているこの小さな生命体の成長をしかと見届けることの方がずっと貴重で尊い気がする。
私ももっと、赤ちゃんのいろんな表情が見たい。そう思い、昨日から夫の口調を真似しながら赤ちゃんに話しかけてみている。
(産後51日目)