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中に入り込むことと、俯瞰して眺めること

カニジルという、鳥取大学病院の広報誌の増刊号として、自分の住んでいる大山町での取材のアテンドの仕事をした。「エコ・医療に関わる、持続可能な社会」というテーマで、大山町の自然やそこで生きる方々の姿をポートレートという形で写真に撮るというものだ。

カニジルの代表でご自身もノンフィクションライターである編集長の田崎健太さんとプロのカメラマン大森克己さんが東京から来られ、私が大山町内を案内する。観光案内ではなく、人の生き様や文化、自然を、説明なしで写真のみで表現する、その案内人役を仰せつかった。

東京から鳥取に来て11年。大山町に関わって5年ほど。家と職場の往復で、地域とつながりがなかった生活から、自身の結婚・出産を機に、地域の関わりの中で生きる生活に変化した。暮らしの保健室を試行錯誤しながら進めていく中で、地域の方とたくさんのつながりができた。どこへ行っても、知った顔の方に出会い、声をかけてもらえる。今回そのつながりを駆使して、外の方に自分の住む町やカッコイイと思う人々や文化を紹介できたことは、自分にとって大きな喜びだった。

中にぐっと入り込むことで出会える人がいる。特に田舎では、よそから来た人への警戒心が強いので、何かをする際には知った顔の人の信頼貯金を借りることが不可欠だ。地域の中で当たり前だと思っている文化や慣習が、よそから来た人にとっては新鮮で面白いと感じることもある。

中に入り込み続けていると、気付かぬうちに鈍感になっていく。新鮮さを感じなくなり、しがらみにがんじがらめになり動きづらくなったり、顔色を伺い息苦しくなったり。まさに私は沼にはまりつつあり、小さな世界に些か息苦しさを感じて外の世界に首を突っ込んだこともあったので、今回、中の世界を外から客観的に眺めるという機会をもらえ、とてもよかった。

素潜り漁師さんから海の中でサザエの気配を感じられるようになるというディープな話を聞き、海に毎日散歩にいく高校生の話を聞いた後、今度は山の上からさっきまでいた海を俯瞰して眺める。ぐっと入っては、引いて見る。

一方で、大森さんをアテンドしながら車を走らせていると、何度も「停めて」と言われる。素人目に見ても景色が良いところだけでなく、緑の草の中に赤い花がぽつんと咲いている風景ひとつにも、車を停めてカメラを向ける。山を走っていて、カーブを抜けるとパッとひらけて海が見える。きれいだなと思ってもいつもは素通りしてしまうが、車を停める。ああ、鳥取に来たばかりの頃は自分もこうしていたなと思い返した。最初の一年は車がなかったので、自転車に乗って、何か気になったらすぐ停まって写真を撮ったり寄り道をしていた。車を手に入れて、いろんなことを素通りすることに慣れてしまっていた。そうだよな、車を停めたらいいんだ。

大森さんが「ほぼ日」で編集部の奥野武範さんと対談していた記事を読んでいて、とても興味深いことが書いてあった。

ピントに自覚的な写真は、いい写真かどうか、上手い写真かどうかはさておき、すくなくとも、おもしろい写真ではあると思いますよ。(中略)ぼくは、まずは「ここを見てます」ってピントが先で、フレーミングは半ば偶然‥‥ってほうが、写真っぽい気がしているんです。
(中略)のんべんだらりとした日常ですからと、決定的瞬間を否定している人でも、どこかでシャッターは押すわけだから。その瞬間は「決定的」だよね。その写真にとっては、その瞬間が。つまり、シャッターを押さなければ、写真にはならない。その瞬間は「決定的」なんですよ。ただ、その瞬間が世間を驚かせるような「劇的」な瞬間や「神々しい」被写体、みたいなものでは、もう、必ずしもないっていうか。もっと、パーソナルなものになっている。
ぼく自身は、どんなにささやかであれ、世界では常に何かが起こっている、
という気持ちを持っています。「すべては初めて起こる」んだってね。

写真家が向き合っているもの。https://www.1101.com/n/s/katsumi_omori/2021-05-01.html

プロの仕事を体感させていただき、たくさん刺激を受けた。中に入るからこそ見えるものがあるが、自身もどろりと溶けてしまわず俯瞰した視点を持ちつつ、ピントを自分に問い続ける。今の自分の状況を面白いなと改めて思えたし、これは子育てにもいえることだと感じた。