記録は財産だ
私と日記
物心ついたころから日記を書いていた。
小学校の夏休みの日記、友達との交換日記、手帳のウィークリーに一言日記、時代は変わってmixiやブログの投稿など、定期的に書いていた。
誰に会ったとかどこへ行ったとかどんな映画を見たとか。何か特別な事があった時の記録として書いていたと思う。
(後から見返してもふーん、、、でしかなく、ほとんど捨ててしまった)
そんな私が数年前に出会ったのがほぼ日5年日記
ちょうど結婚して生活環境が変わった年だった。
ほぼ日社長である糸井重里さんの「これは絶対面白い」という言葉に魅かれて使い始めた。
「毎日書く」を習慣にするのははじめは大変だったけれど、日記をめくって紙が使い込まれていく達成感や、1年前、2年前の自分と比較をすると新鮮な気付きもあり、日常を記録する楽しさにハマっていった。
ちょうど結婚・妊娠・出産・引っ越し・仕事復帰とライフステージが大きく変わった5年間だったので、特に最後の年には4年前の自分とのギャップを感じられて面白かった。
2児を育てながらの仕事と家事の両立にあくせくしていて、4年前のまだ子どもがおらず自由気ままに過ごしている自分の様子が羨ましく呑気でいいなぁと思ったりしていた。
そして一昨年の12月、最後のページを書き終えた。
5年使い込んだ日記は折グセがつき表紙の皮も味を増していた。
パッと見ると古びた日記だけど、5年間を一緒に過ごした相棒感が出てきた。
使い古し感が自分を褒めたくなる成果になった。
私と娘の日記
翌年からの日記をどうしようかと考え始めた頃、買い物先で「おやこ3年日記」が目に留まった。可愛い装丁に娘のテンションもあがっている。
娘がちょうど文字に興味を持ち始めたタイミングだった事もあり、2人で書いたら楽しそう、文字に限らず娘になにか描いてもらって落書き記録になってもいいかも、と思い使い始めた。
しかし、始めると続かない。
3歳の娘と日記を開くのは想像していた以上に難易度が高かった。
「日記書こうよ」の呼びかけも最初の数日で効かなくなり、だんだんと「書かないの⁉」「ねぇ、書こうって言ったじゃん」と大人げなくイライラしてしまう。
ダメだ、私は娘と和やかな日記タイムを夢見ていたのに。
これじゃあ本末転倒だ。
なかなか親の思惑通りにはいかない。
娘に強要することはせず、私が書いていたらいつか一緒に書いてくれるかな、という淡い期待を抱きながら、娘や息子の記録を書き続ける事にした。
しかし、1人でコツコツ書くのは大変だった。
仕事と家事の両立で時間がない中、自分の内省用の手帳も書いている。他のSNSの投稿の方に時間を使いたい(そっちの方が楽しい)。
2年目を迎えた今年のはじめ、もうやめようかと考えるようになった。
とはいえ、いつでも書けるようにとリビングのすぐ手に取れる場所に置いてあるゆえ、なんとなくやめにくい。
やめ時を探していた。
娘にとっての日記
ところがある日、思いがけない光景が目に止まった。
娘が日記を開いて読んでいる。
私が一年前に書いたページを。
数字や漢字の読み方を聞きながら、ページをめくって読んでを繰り返し没頭している。
読んでくれたんだね!と話しかけたり一緒に一年前を振り返ってはしゃぎたい気持ちをグッと堪えて、気付かないふりをしながら見守った。
他者の目や意見に敏感になり始めた5歳児に余計な事を言ったらパタンと日記を閉じてこの愛おしい時間が途絶えてしまいかねない。
次第に娘が「これってどういうこと?」と「○○にいったの、たのしかったね」と日記を読みながら思い出を振り返っている。
そして、最後には「この前○○に行ったことも書いておこう」と言ってあいているページに日記を書き始めた。
(そこはその日のページじゃないんだけど…まぁいいか)
記録は財産だ
記録は、親が子どもに残せるものの一つかもしれない。
新しい知識や経験を毎日全力で吸収して、まっすぐ前だけを見ている子どもたち。
過ぎていく日々の出来事やその時に感じた事を言葉にしておくことは親が出来る事のひとつかもしれない。
そしてそれは、子どもが自分の歩みを振り返り成長を感じるヒントになるかもしれない。
娘は日記を書いたり書かなかったり。
習慣にはなっていないけれど、昨年と比べると娘の書いた文字やイラストが増えている。
だから私が時々開いて書いたりもしている。
でも以前のような虚無感や、書かなきゃという義務感は無くなった。
これは私が子どもに残せる。残したい財産の一つだ。
5年後とか大人になってからとかそんな大それた記録じゃなくていい。
半年前、一年前に過ごした時間をそっと思い出してくれたら十分だ。
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