一冊も本を出版してなくても
サリンジャーのバディが、シーモアのことを「一行も詩を書かなくても、彼は詩人なんだ」と言っていることがずっと気になっている。
同じくフラニーも、「絶えず祈る」という意味に心惹かれるのだけど、つまり他のことをしていても常に祈るにはどうすればいいか。それによって何が起こるか。フラニーは、いろんな問題の解決をそこに求めて寝込んでしまう。
私は特定の宗教の信者ではないので、祈る、という意味が、たぶん、あまりわかっていない。けど、私も、この件を考えてみた。一冊も本を出版してなくても小説家でいることは、できるのか、ということに置き換えて。
noteで投稿しはじめてから、3ヶ月経った。はじめは、とにかく誰かに見つけてもらいたくて、毎日更新することを目標にしていた。毎日更新は、楽しかった。それまでも、毎日のように日記は書いていたけど、もちろんコメントをもらうことなんてないわけだし、新聞に万が一載ってしまってもいい文章にしようと思うのは、日記ではありえない。人のことを考えて文章を書くのは、楽しかった。でも、自分で勝手にプレッシャーを感じて、あるとき、毎日更新を義務にしない宣言をした。
そしてまた、毎日更新を目標にしようかなぁと思い始めてから数日後、というか、昨日、ふと、あ、文章書くの楽しいなぁと思った。理屈じゃなくて。分解しなくても、わかる、シンプルな楽しさ。
私の想いが誰かに伝わっているかもしれない。伝わってなんかないかもしれない。誤解されているかもしれない。夢見られているのかもしれない。全部、どうでもよくて、楽しいな、と思った。
自分でしっくりきた表現ができたり、頭の隅にあったイメージを抜き出したり、思っていることを形にして、あ、こんな形してたんだ、としげしげ眺めるのが、楽しい。それに反応をもらえると、おお、と思う。
一冊も本を出版していなくても、小説家でいることはできるのではないか。小説家の自分を信じることができるのではないか。なんだか、そう思った。
それって、なんだろう。受け入れる、みたいな気持ちだろうか。
昨日、めったに見ないFacebookの通知で気になったので、ある方の独白を読んだ。その方は、医療分野で若いけど講演をいくつもしていて、新しいことをいろいろやっているすごい人だけど、自分には、何もできない、何者にもなれないと認めるとおっしゃっていた。なにもできないのに、できるように見せてた自分をやめて、認めよう、と。血を吐くような言葉たちだった。
私はそれは今の自分を受け入れるってことかなと思った。弱さも含めて。子供の頃、大人たちが「将来何になりたいの?」と、今は何者でもないかのように聞いてくる呪縛から解き放たれて、私は私だと思わないとって。
つまり、一冊も本を出版してなくても、文章が好きで、小説書いて、誰かに読んでもらえたなら、もう小説家でいいんじゃない。
って思うけど、なんか違っちゃったかな、B?
まぁ、とはいえ、お金持ちが私の本を出そうと言っても、断りません。