禅の道(二)求道と道心
この道は、どんな道かは自分以外には誰にもわかりません。
そりゃそうでしょ。
「禅」というものを探してもどこにも何もない。
何もないのですが、はたして自分というものはあります。
みなそれぞれに勝手に自分の道を求めておるわけです。
ほんとうの自分を見つけようとか、
自分はいったいナニモノだとか、
これからどうしたらよいか、などなどと。
だから今まで、友だちに私が寺へ坐禅に行っておるといいましたら、
大抵の方は俺もいく、私もいくと坐禅をしに来たのです。
坐禅というものは、かくかくしかじかで、仏法は云々カンヌン
などと友だちに申したことは一度もありません。
いままで自分から坐禅を勧めたことが一度もないのです。
勧めようとも思わなかった。
ところが、昨日はじめて勧めてみたのです。
「一緒に坐りませんか」と。
記事を書いた後で「しまった」と思いました。
時がくれば放っておいても坐禅したくなるものです。
それでもう、この「禅の道」の記事をやめようとさえ考えました。
ところが、それもれっきとした介入なんですね。
不自然なことをやっちゃいかんのです。
あるがまま、なすがままに、進んでいけばそれでよし。
鳴かずんば、それもまたよし、ほととぎす。
鳴くまで待つこともないのであります。
・・・
大先輩の澤木興道老師は昔こうおっしゃった。
「自分が自分を自分する」
坐禅というのは何もむずかしいことではありません。
だれでも自分だけの坐禅をちゃんとやっております。
最初は型を覚えます。
すべての武道や茶道も華道も芸道もみなそうでしょう。
ひととおり習ったらあとは全部「工夫」です。
足が痛いの、眠いのだの、知ったこっちゃありません。
ところが、やっておると、わかるのですね。
みえてくる。
なかには怒り出す人も泣き出す人もいます。
それは全部自分なんだ。
となりに坐っておっても
となりの人のことはさっぱりわかりません。
ですが、いっしょに坐っておる。
だまって、ただそこに坐っております。
・・・
坐禅が終わってから、いっしょにお茶をいただきます。
行茶といいます。
ふつうにお茶を飲むだけです。
たまにお菓子もでる。
約束事はただ一つ、坐禅堂では終始無言。
自分から坐禅するというだけで素晴らしいことなんですよ実際は。
これを「道心」と申します。
お釈迦さんが悟りを開かれたときの恰好なんです。
坐禅は。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道
むかし我が家にも茶虎の男の子がいました。ちょうど「チャトラン」が流行っていたときでしたので「チャム」と名付けました。交通事故で亡くなったときは、家族中が一晩中泣きました。