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禅の道(31)坐禅は退屈か?

「坐禅」と聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべますか?
静かな部屋でじっと坐り、何もせずただ時間が過ぎるのを待つ…そんな「退屈そう」なイメージを抱く方も多いのではないでしょうか。しかし、実際に坐禅を体験してみると、その印象は大きく変わるはずです。なぜなら、坐禅は「何もしていない」のではなく、「ただ見つめる」という、とても能動的な時間だからです。

浮かび上がる自己との出会い

坐禅では、目を閉じ、呼吸を調え、静かに坐ります。すると、日常の忙しさの中では気づくことのなかった自分の中の「雑念」や「感情」、そして「欲望」や「執着」が次々と浮かび上がってきます。それらは、普段ならスマートフォンやテレビ、仕事の忙しさで埋もれてしまうものです。しかし坐禅の中では、それらが隠れる場所を失い、あなたの前に姿を現します。

例えば、突然過去の出来事を思い出したり、未来への不安が頭をよぎったり、「こんなことをしている暇はない」といった焦りが生まれることもあるでしょう。これらはすべて、私たちの「現在の自己」を構成しているもの。坐禅は、それらを「ただ見つめる」場なのです。

ただ見つめるという行為

坐禅の鍵となるのは、「浮かんできたものにとらわれない」ということです。浮かんできた感情や思考を否定する必要はありませんが、それに引きずられて、いつまでも考え込むことを避けます。ただ、「そこにある」ものとして眺めます。

たとえば、怒りが湧いてきたとします。そのとき、「ああ、自分は今、怒りを感じている」と気づき、そのまま放っておきます。すると、不思議なことに、その怒りは次第に消えていきます。これは他の感情や思考でも同じです。「浮かんでは消えていく」というプロセスを繰り返すうちに、私たちは「今ここにいる自己」に気づき、その明確な輪郭を見つけることができるのです。

坐禅は退屈ではない

坐禅は一見すると退屈に思えるかもしれません。しかし実際には、浮かび上がる感情や思考との「出会いと手放し」の連続です。このプロセスはとても深く、時に感動的でさえあります。
坐禅が「退屈だ」と感じるのは、まだその豊かさを体験していないからかもしれません。

坐禅が明らかにするもの

坐禅を続けると、心の中にある「現在の自己」が少しずつ明らかになります。それは、自分の中の癖やパターンに気づき、自分自身を客観的に見るための貴重な時間です。現代の忙しい生活の中で、自分と静かに向き合う時間を持つことは、心の安定と充実感をもたらします。

坐禅のすすめ

初めて坐禅をする際には、「ただ坐る」という行為に慣れることから始めてみましょう。短い時間からで構いません。最初は「退屈だ」と感じるかもしれませんが、やがてその「退屈」の中に隠された豊かな世界に気づくはずです。

坐禅は特別な道具や場所を必要としません。ただ静かに坐り、自分の中に浮かぶものを「ただ見つめる」だけ。その中で、あなた自身の新たな一面が浮かび上がってくるでしょう。

「坐禅は退屈だ」という思い込みを手放し、ぜひ一度その深さを体験してみてください。それはきっと、これまでの「自分」から一歩踏み出すきっかけになるはずです。


「頭燃をはらう」
頭に火がついたら、待ったなしですぐに火の粉をはらうでしょう。そのように頭に浮かんだ妄想(ほとんどコレです)をはらいます。これが私たちが教わった坐禅のときの具体的な方法です。

「何も考えない」
坐禅のときに、何も考えないほど厳しい修行はありません。頭に何も浮かばないということではありません。どうしても思ったり、考えたりしてしまいます。それをしない。チャレンジの価値は大有りです。

「悟ろうなどとは決して思わない」
坐禅していることが、そのまま悟りです。この忙しいときに足を組み、手を組んで何になるか?「何もならない」と先人は喝破されました。坐禅は釈尊のお姿そのままだから、そのままで「修行と証悟」は同じなのだと。

「退屈って何?」
余計なことを考えている時間のほうが、圧倒的に無駄です。そのように自分に言い聞かせています。退屈というのは、自分に興味のないときの言いぐさ。欠伸したり居眠りなどはもってのほか、かもしれません。


ご覧いただき有難うございます。
念水庵

私ごとで恐縮ですが(いつも私ごと笑)昨日お見合いをしまして、ご覧のとおり、保護ねこちゃんをお迎えしました。この子のなまえは「ここ」です。今ここ自分の「ここ」。男の子でした。ところが、保護されていた安楽寺(通称:にゃんらくじ)様と相談の結果、なんと女の子もいっしょにお世話することになりました。なまえは「ビリー」(ビリー・ホリディ)。ひとりではさみしかろうというのが、親ごころ。なるほど納得です。きょうからは、わが庵の新しい家族との生活を記録してまいります。どうぞよろしくお願いします。念水庵あらため「にゃんすいあん」になりそうです笑

来たばかりの「ここ」は、ここどこ?といったイカ耳でした。

「ここ」ちゃんと自分

安楽寺様の心からのお世話取りに厚く御礼申し上げます。

「ここ」と「ビリー」

もりもり食べてます。
うんちも正常です。

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