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禅の道(40)宝鏡三昧

宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)は、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師が作られた漢詩で、その内容は禅の真理を詩的に表現しています。この詩のテーマは、「宝鏡」(至上の明鏡)を通じて、悟りの境地や仏の智慧を説きながら、修行者にその意義を示すことです。

以下に、その内容を現代語に要約して解説します。


現代語の要約

宇宙全体は澄み切った鏡のように輝いている。この鏡に映るものは何一つ隠れることはない。鏡の中に映し出される真実を見つめることが、仏道の核心だ。良いとか悪いとか、大小とか、美醜とか、二元的な判断を超え、ただそのままの本質を見よ。

日常の一瞬一瞬が、悟りの表現であり、すべての出来事が仏の教えを映し出す場となる。言葉や知識では捉えきれないこの真理を、深い禅定(三昧)の中で静かに体験する。それが『宝鏡三昧』の生き方だ。


解説

1. 「宝鏡」の象徴するもの

「宝鏡」は仏の智慧そのものを表します。これはただ単に「知識」ではなく、すべての現象の本質をありのままに映し出す能力を意味します。私たちの心も、本来はこの宝鏡のように清らかで透明ですが、煩悩や妄念によって曇ってしまうのです。この曇りを取り除くのが修行の目的です。

2. 二元性を超える悟り

詩の中では、「善悪」「美醜」「大小」といった二元的な概念を超えるように求めています。私たちは日常生活の中で物事を分けて考えがちですが、禅では、すべてが一つの真理の表現だと理解します。「良い」「悪い」といった価値判断を超え、ありのままを見る心を養うのが禅の実践です。

3. 禅定(サマーディ)の重要性

「三昧(さんまい)」とは、集中した心の状態、つまり禅定を指します。この状態では、心は静かで澄み切り、あらゆるものを正確に映し出す鏡のようになります。『宝鏡三昧』では、この禅定の中で宇宙の真理を体験し、それを日常生活の中で実践することを勧めています。

4. 言葉を超えた体験

禅の教えでは、真理は言葉や論理では伝えきれないものです。そのため、この詩も非常に詩的で象徴的な表現を用いています。しかし、その核心は、静かに坐り、自己の内面を見つめる中で直接体験するしかありません。


日常生活での応用

『宝鏡三昧』が伝える教えは、日常生活にも活かすことができます。

  • 心を澄ませる時間を持つ
    朝晩に静かに坐って、心を見つめる習慣を作りましょう。

  • 偏見を手放す
    良い悪い、好き嫌いという判断を一旦脇に置いて、ありのままを受け入れる練習をしてみましょう。

  • 一瞬一瞬に集中する
    今、この瞬間が宝鏡のように輝く場だと気づきましょう。

この詩は、ただ読むだけでなく、日々の実践を通じて深まる教えです。

原文(参照)リンク


この宝鏡三昧の末尾に示された「臣は君に奉し、 子は父に順ず、順ぜざれば孝にあらず、奉せざれば輔に非ず、潜行密用は、愚の如く魯の如し、只能く相続するを、主中の主と名づく。」この文を現代語に訳すと、以下のような内容になります。


「家臣は主君に仕え、子どもは親に従うべきである。それを守らなければ、親孝行とは言えず、また主君を助ける役割も果たせない。自分の行いを隠し、目立たない形で努力を重ねる姿は、あたかも愚かで素朴な者のように見えるかもしれない。しかし、ただひたすらにその役目を果たし続けることこそが、本当の意味での中心的な役割を担う存在、『主中の主』と呼ばれるにふさわしいのである。」


この文では、忠孝の重要性が述べられています。ただ単に目立つ行動をするのではなく、地味で目立たないとしても、自分の務めを全うすることの価値を強調しています。

特に「潜行密用」(目立たずひそかに務めること)が重要とされ、それが愚かに見えるかもしれないが、実はそのような姿勢こそが、本当に大切な役割を果たす存在であると認められる、と示しています。

これは、表面的な行動や評価にとらわれず、地道に責務を果たすことの重要性を伝えています。


宝鏡=明鏡とは悟りを開かれたブッダ釈尊の智慧のことです。
私たちは毎朝、一日おきにこの「宝鏡三昧」と「参同契」を交互にお唱えしております。道元禅師から教えられた伝統ですから、親の言いつけを守って愚直にお唱えするのであります。

毎日お唱えしていると、自然に意味が解って参ります。なぜなら毎日の出来事がそのまま修行であり、「鏡」であるからに他なりません。眼鏡も曇っておれば、ちゃんと見えないように、こころの鏡も磨きつづける必要があります。それが「あるがまま」に見るという様子です。

昨日、わが庵の天井を「プラダン」というプラスチックの段ボールのようなもので張りました。断熱材をいれなくても十分あたたかい。小屋裏が見えなくなる。安く早く軽く張れます。段ボールにくるまって路上で寝ている方を思えば有難く、勿体ないかぎりであります。

吹きさらしの草庵で余生を過ごされた良寛さまのように生きていきます。江戸時代に比べれば現代は御殿暮らしのようなものです。「ボロは着てても心の錦」歌の文句じゃありませんが、必要最低限の生活でもこころ豊かに暮らしていけます。まさに「愚の如く魯の如し」であります。

ご覧いただき有難うございます。
念水庵


にゃんすいあん日記10日目

ねむけまなこで私に気付くふたり。

ここ&ビリーお目覚め

良寛さんが子どもたちと遊んだように、にゃんたちと遊ぶ幸せな日々をすごしています。
ここ&ビリーは、まるでケンカでもしてるように見えますが、じつはじゃれあっているんですね。
ねるときは、いつもふたりいっしょ。
かわいい寝顔、おねだりのときのまん丸目玉。
出張のときには私の長女と孫娘が様子をみにきてくれるとのことでした。
あんしんです。
ありがたいことです。

今日の動画は成長の記録です。(12/1撮影)
極端に短いのでぜひご覧ください。


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