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禅の道(14)霧か煙か霞か雲か

霞や雲は、遠くに見える桜のたとえとのことですが、参禅堂から池越しに見える山の麓にたなびく霞?は、晴天の日の光景で私のもっともお気に入りの時間と空間であります。あの山の向こう側は「奥琵琶湖」。この山のおかげで湖からの直接の風がさえぎられ、やわらかい風となって吹いてきます。

冬は西北や北側からの冷たい季節風を赤坂山や三国山などが盾となって防いでくれ、さらに裏山の杉林が防風林となってくれています。山紫水明。文字通り山と水に囲まれた静かな田舎の風景です。ここで余生を過ごすことに決めた動機は、なんと申しましてもこの自然の豊かさにあります。

生きているかぎり死すことは自然の道理です。道元禅師の正法眼蔵に「正死」の巻があります。ぜひリンクをたどり調べて頂ければ幸いです。この一巻だけで、悟りを得ることも可能だと思えるぐらいに、味わい深い箴言だと感じております。

生死しょうじ

「生は、ひとときのくらいにて、すでに、さきあり、のちあり。」

道元禅師、正法眼蔵「生死」より一行抜粋

禅師様にしては、ものすごく短い巻ですが、私は最も深いと思いますし、折に触れ何度も読み返しております。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と申しますが、葉隠の「いつ死んでも悔いのない生き方」にも通じ、生きることの本質的な意味が込められています。

この「生は、ひとときのくらいにて、すでに、さきあり、のちあり。」という道元禅師の言葉は、仏祖の深い教えが凝縮されています。以下に、この文章の意味と意図についてわかりやすく解説します。

1. 「ひとときのくらい」とは

「ひとときのくらい」とは「ある一瞬」という意味です。この一瞬に集中し、過去や未来に囚われずに「今」に生きることが大切であるという考え方が込められています。しかし、ここでの「ひととき」は単なる一瞬だけではなく、今この瞬間が時空を超えて「永遠」とつながっているという感覚をも含んでいます。

2. 「すでに、さきあり、のちあり」の意味

「さき」とは過去を、「のち」は未来を意味します。この表現は、私たちが生きている今という瞬間が、過去や未来と切り離されているのではなく、深くつながっていることを示しています。たとえば、今の自分の存在は、過去に生きた人々や自分の行動、選択の上に成り立ち、同時に今の行動が未来に影響を及ぼすことになります。

道元禅師は、この「生」を一瞬として捉えながらも、過去や未来がその一瞬に含まれているという時間を越えた深い生命のあり方を指摘しています。

3. 生死を越えた「生」

この一文が示しているのは、生きること(生)と死ぬこと(死)という対立を超えて、生命そのものを「ひとときのくらい」として捉える視点です。生も死もどちらか一方に偏るのではなく、過去も未来も含む「ひとつの全体」として捉えるということです。これにより、私たちの「生」は、刹那の一瞬でありながら、その一瞬が永遠に続く無限の流れの中にあると悟ることができると道元禅師は教えています。

結論

道元禅師は、この言葉を通して、「今」という瞬間が持つ豊かさと、その瞬間が生死や過去・未来とつながっている壮大な全体性を教えているのです。

これからの1分間、以下の動画をご覧ください。
音は微かな鳥のさえずりと水音だけです。

ご覧いただき有難うございます。
念水庵

心配せんでも死ぬまで死なん。

仏道とは生死(しょうじ)のことと見つけたり。

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