禅の道(六)東司(とうす)の心得
道元禅師の『正法眼蔵』「洗浄」巻では、修行における清潔さと日々の行動における心の在り方について詳述されています。禅師は、清浄や清潔は単に外面的なものでなく、心の純粋さ、誠実さ、そして一切の行動に内面の清らかさが反映されることを指しています。この巻での意図は、修行者が日常生活の中で身体と心を清めることを実践し、その行動が仏道の実践そのものであると悟ることにあります。
時代背景と「洗浄」の意図
道元禅師がこの教えを説いた鎌倉時代、日本は武士の台頭により社会が激動し、道徳や倫理観が揺らいでいた時期です。この混乱した時代の中で、道元は仏道の修行を通じて、個人が日常生活を丁寧に清めることで心も磨き、平安を得ることができると説きました。「洗浄」は単なる清潔さの実践を超え、行動の中に真摯な態度を伴わせる重要性を示しています。たとえば、禅師は「掃除や洗浄は悟りへの道である」として、日常の些細な行いが禅の修行として成り立つことを強調しました。
現代への応用
この「洗浄」の教えは、現代においても私たちの生活に多くの示唆を与えてくれます。現代社会では、多忙な日々の中で心が疲れやすく、特に物質的な豊かさに頼りがちです。そのような状況で、禅師が説いた「洗浄」の意識を取り入れると、どんなに小さな行動であっても丁寧に向き合うことで、自分の行動一つひとつに意識を集中させ、心を澄ませることができます。たとえば、掃除や洗濯、食事の準備など、日常の一つひとつの行為に心を込めて取り組むことで、今ここにいることへの感謝と平静さを培うことができるのです。
実践への提案
現代の生活に「洗浄」を取り入れる方法として、以下のような実践が役立つでしょう。
掃除や片付けに「禅」の意識を取り入れる:ただの雑事ではなく、心の浄化として行う。掃除をするときに集中し、気持ちを落ち着け、無駄な思考を捨てるように心がけます。
一日の始まりに「洗浄」の時間を取る:朝、顔を洗ったり、歯を磨いたりする時間を単なるルーティンではなく、一日を清浄に始める儀式として意識する。
行動の純粋さを意識する:何かをするとき、自己中心的な気持ちを手放し、他人に配慮した純粋な気持ちで行うようにする。
このように、道元禅師の「洗浄」の教えは、現代の忙しい生活の中で心の落ち着きと内なる清浄さを得るための実践として役立ちます。心の穏やかさが日々の行いに浸透すれば、自分の行動が他者にも良い影響を与え、結果として周囲にも調和が生まれるでしょう。
「洗浄」の巻には、特に東司(トイレ)における方法についても具体的に詳しく述べられています。この部分では、禅僧がトイレを使う際に、どのような心構えで臨むべきか、またその動作の細かな手順についての指示が含まれています。
以下に、その一節の古文と現代語訳を示します。
原文
現代語訳
「便所に行く際には、まず決められた服装を整え、袈裟を脱いで所定の場所に掛けてから向かいます。便所に向かうときには、他の僧侶(特に上座)に会った場合、礼拝の礼を尽くすべきです。便所に入る際は、まず左手で戸を開き、右手で戸を閉めること。そして、行動の一つひとつを慎重に行い、心を静かに保ちながら臨むべきです。」
解説
道元禅師は、トイレに行くという日常の行為に対しても、一つひとつの動作に心を込め、慎重に取り組むことを強調しています。単なる身だしなみだけでなく、出会った僧侶に礼を尽くす姿勢や、動作の一つひとつを丁寧に行うことで、自分の心も調えられます。このように、トイレという場所もまた修行の場であり、生活のどの瞬間も仏道の実践に通じているという教えが込められています。
現代においても、日常のルーチンをただ流すのではなく、一つひとつの行為に心を込めて取り組むことが、気持ちを落ち着ける方法として役立つでしょう。
東司は七堂伽藍の一つとされています。このこと一つ取ってみても如何に重要な場所であるかがお分かり頂けるのではないでしょうか。東司には烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)をお祀りします。そして心の中でつぎの偈文をお唱えいたします。
左右便利(さゆうべんり))
当願衆生(とうがんしゅじょう)
蠲除穢汚(けんじょえお)
無婬怒癡(むいんぬち)
東司は三黙道場(僧堂、東司、浴司)の一つです。
一切の私語が禁じられております。
用を足すとき便器にむけて三回弾指(たんじ)します。
弾指は曲げた人差し指を親指の腹で弾き、親指が中指の横腹に当ってパチンと音がでます。決して人に向けて行ってはなりません。必ず嫌われます笑
ご覧いただき有難うございます。
念水庵
友人が竹の切れ端を探してきて池の上流にそっと置きました。
この水音が美しい。
心洗われる感じがいたします。
「静かなる池のほとりや水流る」
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