私が今やるべきこと
僕は文章を書くのは好きなんですけど、読むのは不得意なので、実はまともに本を読んだことがありません。
なので要約にはなってしまうんですが、『7つの習慣』『夜と霧』『ツァラトゥストラ』の3冊は感銘を受けた本だとはっきり言えます。
具体的に言うと、7つの習慣では終わり思い描くことや重要と緊急の違い、自叙伝的な反応やwin-winであることなど世界観の共鳴があり、夜と霧では愛することなど生の悦びについて、ツァラトゥストラでは精神の三段階の変化のような生の価値にまつわる話が、自分の感覚に近いなと思いました。
ツァラトゥストラの中でニーチェは、「たった一度でいい、本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する」と言っており、「悲しみや苦しみを引き連れてでも、あなたはまたその人生を歩み出すだろう」というのが、僕の中で自ら生を終わらせる選択肢がない理由とも重なります。
ですが、ここまで書いてきた内容はほとんど自分の内側に向かっている話ばかりで、他者との関係性やコミュニケーションについてはあまり関心を持ってこなかった奴であることが分かると思います。
そこで今回の主題であるアドラーさんのお話になります。
一応注意なんですけど、今回のお話のベースは『嫌われる勇気』なので、「それはアドラーさんの意見ではなく著者の見解ですよ」みたいなこともあるかもしれません。
そちらに関してはあらかじめご了承くださいませ。
嫌われる勇気
数年前にヒットした『嫌われる勇気』の中で、「共同体に貢献していると感じられるときに、自分に価値があると思える」とアドラーさんは言っているそうです。
要するに、仲間に貢献することが幸せだよって話ですね。
僕はアドラー心理学の目的論とかは凄いわかるなって思っていて、先ほど挙げた本の中に並べてもいいくらい『嫌われる勇気』の世界観は自分に通ずるものがあります。
特にアドラーの幼い頃の話で、弟が亡くなったのを見て母親が笑っていたのが衝撃だったというエピソードは、僕の両親が離婚したとき、父親が出ていく朝に母親が初めて心の底から笑う顔を見たという経験と重なり、感銘というよりは同調にも似た感覚を持っています。
ただ、僕は大切に思う1人、いわゆる愛のようなカタチでしかこの感覚を経験したことがないので、完璧に腑に落ちてる訳ではないんです。
ちなみにここ数日の投稿を整理すると、僕は今まで自分のことばかり見過ぎていたという反省があって、これからはもう少し周りを見ながら役立つことをしたいと考えた結果、『嫌われる勇気』に帰ってきたという流れです。
少し専門用語にはなりますが、自己受容・他者信頼・他者貢献という3つが今回重要なキーワードになります。
まずは自己受容
アドラーさん曰く、「人間の悩みは全て対人関係」らしくて、それを制するために必要なのがこの3つということなんですが、何となくこれはステップアップ式になってる気がするんです。
「自分に価値があると思えるときに人は対人関係に向き合う勇気を持てる」とアドラーさんが言うように、対人関係を大切にできる人って言うのは、ある程度開き直ってる人なんですよ。
それは自己肯定感みたいな「自分凄いぞ!」って感覚ではなくて、「自分はこういう奴だから」と自然体でいることを指してるんですけど、「自分なんか、、」と思ってる人は自ら他者の中に入っていこうとしないじゃないですか。
特にアドラーさんは共同体という集団の話をされているので、僕みたいに仲良くなりたい人には話しかけられるというレベルではちょっと足りないんですよね。
少し前に書たいように、自分に価値があると感じるのは他者に貢献したと感じたときなんですけど、その貢献をするには他者の中に入っていかないといけない。
だからまず自己受容が大事ということです。
その上で他者が敵ではなく、応援・協力してくれる存在だと思えるようになる他者信頼の感覚を持つことで、初めて他者貢献に臨めて、自分の価値を感じることができるという流れを僕はイメージしています。
最終的に必要とされている他者貢献には、行為の指標と存在の指標があります。
他者への視点
指標というのは僕が勝手に言ってることなんですけど、行為と存在については『嫌われる勇気』の著者がお話しされてたところから引用してます。
僕が子供の頃から重視してるのが存在の指標の方で、いるだけで貢献になり、いるだけで自分に価値があると思える場所をずっと探しています。
これまで書いた記事や作った曲の中で僕が多様してきたのが、仲間・信頼・安心というワードなんですけど、ここには愛がないですよね。
つまり認めた人間以外を排除してるというか、存在の貢献に繋がらない一瞬の付き合いの人には愛を与える姿勢が全くないことが現れていると思います。
それは心のどこで全員敵だと思ってるというか、自分がしっかりしてないと生き延びられないという危機感や、ある種周りを見下してないと生きていけないような感覚を長らく持っていたせいかもしれません。
けど、中にはいい人もいるんだと知っているから、協力関係というか、できることがあるならやりたいという気持ちはあるんだと思います。
これに関しては、その人の一生に責任を持てないなら深入りするのはお互いにとっていい判断ではない、というちょっとした信条もあるんです。
苦しい状況にある人間は藁にもすがる思いで生きているので、一瞬でも助けてくれた人は大恩人なんです。
つまりそこに縋ってしまう可能性があって、依存へと発展場合こちらとしても離れるのは容易ではありません。
僕の中では自己防衛兼優しさみたいに思ってるんですけど、これが他者信頼や他者貢献にブレーキをかけてる要因になってるんでしょうか。
とにかく、現状僕は自己受容だけは及第点をもらえるかもしらませんが、他者信頼と他者貢献は中途半端に享受してる状態なので、まだまだ他者視点が足りません。
他者に貢献するというのも難しくて、実は自己犠牲をしてはいけないというルールがあるんです。
恐らく本質的に大事なのは、貢献することよりも自分の価値を実感して人生を楽しむことにあるからなんだと思います。
何をするべきか
行為での貢献は求めるものではないし、何より自己犠牲のゾーンに入ってしまったり自分の価値を実感することから遠ざってしまうので選択肢から外します。
じゃあ今の僕にできることは何かと考えると、悦びの共有なんじゃないかと思うんです。
これは僕が1番苦手としてる分野なんですけど、存在で貢献するってことは僕の活動に触れるだけでハッピーになったり、前向きになれるってことですよね。
例えば恋人や友人なら同じ空気感を共有することができるので、わざわざ苦手な表現というか、アピールをする必要がないんですけど、顔が見えたり声が聞こえたりしても、やっぱりオンラインで繋がってるときは空気感までは読み取れないじゃないですか。
ニーチェのときにも使ったこの悦びという漢字は、外的な要因で得る喜びとは違って、自分の中から湧いてくるような悦びを指すそうなんです。
そういう内側から湧いてくる感情って、なんでそれがそんなに嬉しいのか他人には理解しづらいことも多いので、逆にそれを発信していくことで近い感覚の仲間と出会える可能性があると思うんですね。
ひとつひとつの出会いでは個人間の話でしかないですけど、その発信を中心に人が集まれば共同体が生まれると思うんですよ。
すごいシンプルなことなんですけど、ただ真っ直ぐ自分の道を歩くことが自己受容だし、道中声をかけてくれる周りの人に対してウェルカムでいることが他者信頼、そしてその姿が他者貢献にもなってると思うんです。
仮に集まった人が自己受容や他者信頼が不完全で、依存や信者のようにもしなってしまったとしても、僕が自分の道をただ歩いてるだけならそれは僕が抱える問題にはなりません。
もちろん悦びではなく劣等感のような負の感情を発信するのでもいいんですけど、僕は弱者が傷を舐め合って徒党を組んだり、カリスマや成り上がった人間を崇拝する関係が嫌いなんで、やっぱり対等というか、同じ目線の仲間と出会いたいんですよ。
自分は言葉に敏感なところがあるんですけど、ここ数年自分の選ぶ言葉が幼児目線になってるというか、本質的なことは保育園にあるんじゃないかって感じてるんです。
「ありがとう」「ごめんね」「好きだよ」「仲良くしよう」「さようなら」
まぁざっとこんな感じのことが人生の真理というか、大事にしないといけない節目だと思うんですね。
だから普段ゴチャゴチャ考えてるようなことって、重要なんだけど重要じゃないというか、難しく考えすぎてるんだろうなって改めて思いました。
ここ数日、現状を打破するための根本的な変革が自分の中で起こっていて、今回はだいぶ整理できたような気がします。
結論が出せるかは分からないけど、近いうちにひとまずの具体的な行動とか総括を書きたいと思います。
こここまでお付き合いいただきありがとうございます。
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