システムよりも文化|ノーコードと民主主義
インターネットの出現によって情報が民主化されたと言われます。今までは一部の人しか知り得なかった情報に、今では世界中のだれもがアクセスできる時代です。
そして、ここ数年でプログラムをコーディングしなくてもシステムを構築することができる、ノーコードというものまで出現しました。コーディングができなくてもドラッグアンドドロップでシステム開発ができるのです。
もともとプログラマーとして働いていた身からすると、システムはそんなに甘いものではないとも思いますし、コーディングを書いて苦労することでシステムへの理解も深まるので「ノーコードに甘えない方が良いはず」というスタンスを取っていました。
しかし、僕が勤めている会社ではプログラムを書ける人がおらず、外部のツールを導入するとしても、そもそも外注するためのシステムの知識がないこともあり、近年流行りだした「ノーコード」のツールを導入することとなったのです。何よりも契約料が非常にリーズナブルだったのも大きな理由のようでした。
これによって、システム開発の民主化が発生することとなりました。曲がりなりにもコードが書ける身としては、自分の役割が少し浸潤されてしまったような複雑な気持ちが沸き起こりました。
「コードを書かなくて良いなら、コード書ける意味はない」と言われ、自分の仕事が減ってしまうのではないかと思ったのです。
しかし、そんなことはありませんでした。そもそもシステム開発というのは、要件定義がなされてから上流工程である設計書の作成およびレビューを経て、プログラムを書き、単体試験と結合試験、そして運用試験を経て完成に近づけていくプロセスを経ます。
このプロセスの中のプログラムを書く部分がノーコードになるというだけで、その他全てが民主化されるわけではないのです。結局のところ設計にあたる工程の仕事はシステム開発の経験がある社員が行うこととなりました。
そしてコーディング未経験の多くの社員は、そもそものシステム開発のプロセスに対してもリテラシーが高いわけではなく、「ノーコード」を駆使して自由に自分が使いやすいアプリを量産していくことになります。何か不便な機能があったら自由に改良も加え続け、民主化されたシステムは頻繁に書き換えられることにもなりました。
こうして、僕の会社では当初構想していたシステムの構築は達成されず、その代わりに現場の社員がノーコードで好き勝手に量産したアプリが無造作に連携され、パッチワークだらけの非効率なシステムが出来上がってしまいました。
僕のこれからの課題は、これらがいかに非効率であるかを可視化し、新しいシステムを外注するための準備と外部との交渉をすることです。要はノーコード開発に見切りをつけて外注することにしたのです。
「民主化」というと聞こえはいいですが、民主化された場合はひとりひとりにリテラシーや技術が求められることを意味します。
これは何もシステムの話だけではなく、政治における「民主主義」で既に議論されていることでもあります。
国民ひとりひとりが政治と社会に強い関心を抱いて行動をすることによって、ようやく機能するのが民主主義です。歴史を鑑みると、民主主義がもたらしてしまった悲劇も数多くあります。
以前、ウォルマートを例に挙げて「システムよりも文化が大事だ」ということを書きました。
システム開発においても、この考え方は同じだと思います。
どれだけノーコードが急速な民主化をもたらそうとも、そもそも組織により良いシステムを構築するための考え方や文化が浸透していなければ、欠陥の多いシステムが出来上がってしまう結末が待っています。
コーディングを学んだ経験がある身からすると、「ノーコード」でシステム開発ができるということ自体は物凄い技術革新だと思います。
しかし、やっぱり優先されるべきは、どういったシステムを構築したいのかビジョンを描くことができるための組織の文化なのだと思うのです。
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