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無駄な仕事に耐える|ケインズに学ぶ

会社員として仕事をしていると、「この仕事は何の意味があるんだろうか」という瞬間にどうしてもぶち当たります。

その典型は会議かもしれません。高い給料の社員が複数名で集まって議論をしようとするが、誰かの横やりによって話は脱線し、本来議論すべきだった内容は話されず、当初の問題は何も解決されなかったということも多い。

そういった会議にならないよう、主催者(もしくはその部下)は事前に丹念なプレゼン資料を作り込みますが、その資料のうち参加者の目に入る部分はごくわずか。しかも上述の通り、議題が逸れてしまった場合、資料は何の意味を成すこともなく、その会議はまるでなかったことのようになってしまいます。

こういった事は多くの会社で頻繁に生じているはずです。自分が今まで作った資料などを振り返ってみると、何の役に立ったのかわからないものばかり生み出してきたと思ってしまうでしょう。

現場仕事ではなく、資料作成のような会議のための仕事は、働き手を悩ませます。自分の仕事は誰かの役に立っているんだろうかと。

かつて文化人類学者のデイヴィッド・グレーバーは、自分の仕事が世の中から無くなっても社会に何の影響もないことを、仕事をしている当の本人さえも知っている仕事のことを「ブルシットジョブ」と呼び話題になりました。

清掃員や看護師がその街からひとりもいなくなったら大混乱になるけれど、
ヘッジファンドのマネージャーや金融コンサルタントがいなくなっても大した混乱にはならないのです。しかし後者の方が給料は高い。これがグレーバーが指摘していることです。

この現象に共感できる人は多いと思います。これによって仕事のやる気がなくなってしまうのもわからなくもありません。

しかし、ここで20世紀の偉大な経済学者であるジョン・メイナード・ケインズの意見に耳を傾けてみましょう。

ケインズは公共事業のことを「穴を掘って埋めれればいい」という極端な比喩で説明しています。自ら穴を掘って、その穴を埋めることも仕事なので、何の生産性がなくともそれで給与が発生するわけです。

ここで大切なのは、「穴を掘って埋める」だけの仕事であっても、社会に仕事を存在させることで労働者には給与が発生するので、消費者としての需要を喚起することにも繋がるということです。

給与は一定分が労働時間単位あたりに支払われるため、穴を掘って埋めるだけで金を貰えばいい、いうわけです。ケインズは政府が主導してこの手の仕事を公共事業として増やすことで、経済を活発させることを提唱しています。

公共事業でなくとも、上述の無駄に終わった会議の資料作成だろうが、ブルシットジョブだろうが、同様のことです。曲がりなりにも労働者に収入が発生したのだから、社会経済には貢献したと捉えることだってできるようになります。

つまらない仕事をしていたって、そうやって世の中と繋がることができるのです。そうか、特に仕事の生産性や社会への貢献性なんて考えなくてもいいんだ、という気づきにもなるのです。

しかし、この有名な言葉は、言葉ばかりがひとり歩きしている側面もあります。当のケインズはこうも言っています。

もちろん、住宅やそれに類するものを建てる方がいっそう賢明であろう。しかし、もしそうすることに政治的、実際的困難があるとすれば、上述のことはなにもしないよりはまさっているであろう。

J・M・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(東洋経済新報社)

そう、ケインズはわかりやすく説明するために極論を言っているだけで、やっぱり無駄に終わる会議の資料なんかを推奨しているわけではありません。あくまでも「なにもしないよりはまさっている」だけなのです。

無駄な仕事に思えることは決して無駄ではない。しかし、働き手にとって無駄な仕事が有意義なわけではない。当たり前のことに気づかされます。

とはいえ、こういった無駄な仕事の類は組織で発生してしまう現象で、個人では変えられないケースが大半です。どうしてもそういうことが生じる以上、その時だけは「まぁ穴を掘って埋めればいいわけだし」と思う様にしていバランスを取ることをおすすめします。

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