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『ナミビアの砂漠』を観る。

※国映映画研究部サイトにも投稿しております。


公開からだいぶ経ったけど、今年一番震えた映画かもしれない。恐ろしいほどのパワーと破壊衝動に満ちた映画。
山中瑤子監督は僕にとってとても恐ろしい監督で、処女作の『あみこ』の衝動や男の馬鹿さ加減や、短編『おやすみ、また向こう岸で』で男を殺すところは本当に怖かった。
今回もたぶん怖い思いするんだろうなと思ってびびって中々観れなかったけど、やっと観れた。

カナは脱毛エステで働いていて、彼氏のホンダと同棲しているけれど、浮気している。優しいけどつまらない彼氏とは違い浮気相手のハヤシはクリエイターで自信にあふれていて、カナはハヤシに惹かれていき次第にホンダが重荷に感じていく。まあもうこのクリエイターってのが薄っぺらさ満載なのだが。

映画を観ている間ずっと「お前のことが嫌いだ」と指をさされているような気がした。でもたまに好きと言ってくるから余計に戸惑う。僕もどうしようもなく男なんだと思い知らされた。山中映画を観るといつもそう思わされる。
たぶんカナ、そして山中監督は好きと嫌いが同時に存在する人なんじゃないだろうか。好きだけど嫌い、嫌いだけど好き。愛憎というほど劇的でもないけれど、言葉の通り好きで嫌いが同居するのって、辛いのか幸福なのかどっちなんだろう。
中絶や妊娠に共鳴するカナとまるで他人事と理解をしないハヤシ。朝起きて裸のままの上半身を窓の外に見られないようにしながら干されたシャツを取るカナと、平気で外で立ち小便をして自分の裸を公然と晒すハヤシ。
そんな男女にある互いの身体の不均衡さにどうしうもなさを感じた。男よりも性の対象として見られてしまうカナを理解は出来ても、本当の意味で僕が分かることは出来ない、そして許されないような気がする。僕は男なのだから。
まるで女性の怒りの象徴のように映画の中で暴れまわるカナに、少し僕は胸の心地が悪くなる。でも、カナは本当はそういう風に女性の代表みたいに見られることにも嫌気がさしているんじゃないのか。どうあっても世間はカナを女というカテゴリの中で見ることに怒っているような気がした。カナの諦めのような呆れのような虚ろとした目が印象に残る。

カナを演じた河合優実は本当に素晴らしかった。あの目や、走り回り、突然外で側転をする自由奔放な身体はまるでドニラヴァンのようで、スクリーンを飛び越えてしまうかのような危うさと魔性の魅力があった。

終盤、日課のようにハヤシと取っ組み合いの喧嘩をするカナ。突然スクリーンの右上にカナの顔が映る。次第に右上の画が大きくなってきてスクリーンはランニングマシンを走りながらこれまた虚ろな目でスマホに映った取っ組み合いの喧嘩を眺めるカナに置き換わる。辺りはピンクの壁や地面、まるで撮影所のセットのような場所にカナはいる。そして、突然走るのをやめてカナは去る。本来映るはずのない、カメラの後ろ側へと消えていく。
本当に恐ろしいと思った。カナはスクリーンという境界すらも飛び越えて、観る側と観られる側にある境界線を破壊した。安全地帯でのうのうと観る僕ら観客。安全だと思うのは、観られる側であるカナは僕らに干渉が出来ないから。しかしカナはそんな僕らを見て、「お前らも何も分かっていない」と匙を投げて去っていく。あの時のカナは「リング」のテレビから這い出てくる貞子のように恐ろしかった。
でもこの観る側と観られる側の境界の破壊行為って、石井岳龍の「箱男」と同じやん!と思って面白くもあったけど。山中瑤子と石井岳龍が自分の中で繋がるとは思っていなくて、映画も全く違う対極にあるような映画なのに結果辿り着いた場所が同じ。

カナは次第に心が不安定になっていき、仕事をクビになり、鬱病と診断され、追い込まれていく。それでも、毎日を生きるカナ。果たしておかしいのはカナなのか、優しくない社会なのか、見る事しかできない僕ら観客なのだろうか。
ラストシーン、ハヤシとカナは喧嘩に疲れて昼ご飯を食べる。会話もなく、目も合わない二人。すると、カナの母から電話が掛かってくる。ビデオ通話の向こうの楽しそうな母と親戚たちに、カナは思わず笑みがこぼれる。
ラスト、少し微笑むカナ。後ろの窓が開いていて風通しが良さそうで、世間は優しくなくても、大丈夫じゃなくても生きていけるのかもしれない。と少しだけ希望を感じた。




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