越前朝倉氏の黒歴史(2)(『麒麟がくる』解体新書)
越前朝倉氏の黒歴史、舞台は応仁の乱から始まります。
応仁の乱ってなに?
ほとんどの人が歴史用語としか知らないこの乱は、簡単に説明するのがものすごい難しい戦いです。ポイントとしては
1、西暦1467年(応仁元年)から西暦1478年(文明9年)までの約11年間、京都を中心に続いた戦争。
2、時の将軍・足利義政が畠山家や斯波家の家督相続に首をツッコミ、ワケワカメにした挙句、足利将軍家の将軍継嗣問題が降りかかり、日本中の守護大名が東西に別れてドンパチをやる羽目になった。
3、11年も戦争状態が続き、守護大名が領地に戻ったら守護代や地侍が勢力を拡大し、力のない守護大名は没落。足利幕府の将軍権力は畿内一帯程度にしか及ばず、世の中は乱世へ移行することになる。
まぁ、こんなところかなと思います。
そんな中、越前朝倉氏七代当主・朝倉孝景は、越前守護に復帰した斯波義廉と共に西軍の山名宗全に味方します。これは文政の政変の時にすでに宗全の娘と義廉は婚約している関係であり、すでに山名派の一派になっていたためです。また、義廉はこの時、現職の足利幕府管領職(内閣官房長官)にありました。
一方で、将軍義政が越前守護に復帰させようとした斯波義敏は、もともと勝元に近い存在でしたので、東軍に味方します。斯波家は親族が東軍・西軍の二手に別れて戦うことになりますが、この応仁の乱では他に赤松氏、小早川氏、京極氏などが一族敵味方に別れて戦っていますので、あまり珍しいことではなかったようです。
将軍義政の暗躍
孝景は西軍の主力武将として、応仁の乱における数々の戦いで軍功を重ね、その武名を西軍諸将に見せつけました。また周防(山口県南部)の大内政弘(西軍)が大軍を率いて京都に攻め込み、山城国(京都府南部)の実効支配を進めると、東軍の勝元は京都内部のいざこざより、外敵である政弘への対応に当たらねばなりませんでした。
京都の戦火が一時的におさまると、将軍義政は文正の政変で追放された自分の腹心である日野勝光や伊勢貞親たちをコッソリ呼び戻し、政治工作活動に暗躍するようになります。
一方で、孝景も京都の戦争がひと段落し、勝元が山城に攻め込んだ大内政弘に矛先を向けると、しばらく模様眺めに留まりますが、西暦1468年(応仁二年)に将軍義政によって義廉の管領職および越前守護職が解任される事態になると、流石に焦り始めます。
なぜなら、越前守護職の後任は斯波義敏(東軍)だからです。京都に出張してる間に本拠の主が敵方になり、朝倉の勢力基盤が危うくなっているのです。
「こりゃ、京都で戦争してる場合じゃねーぞ」
そう考えた孝景は、山名宗全に対し
「国元が危うくなったので、一旦帰国します。でも来年にはまた京に戻ってきます。その証に嫡男・氏景を京に残します」
と言伝を残し、嫡男・氏景を京都に残して一旦越前に戻ります。越前に戻った孝景は義敏を駆逐しながら、ちゃっかりと越前国内の自分の勢力を拡大していきます。
これが将軍義政の目にとまりました。
「こいつを味方(東軍)に引き入れよう」
将軍義政は孝景と渡りをつけるように細川勝元に命じ、勝元は浦上則宗(播磨赤松氏の家臣)を通じて、孝景家臣・魚住景貞にコンタクトすることに成功します。そして義政は孝景に「越前国における守護権行使」というお墨付きを与えてしまうのです。
朝倉氏は軍事活動においては越前国で守護代の甲斐氏に継ぐ勢力を持っておりますが、守護代の職にはありません。その朝倉氏当主である孝景に守護権行使を認めるというのは、孝景に守護代を超える権限を与えたのと同じことです。
孝景自身も「将軍様、何言ってんの」という感じだったと思います。
しかし、幕府から守護権行使の権限を与えられた孝景にとっては、越前一国を独立支配するチャンスとしか言いようがありません。
これを受け、孝景は西軍から東軍に鞍替えします。これまで主君と奉っていた斯波義廉と同志として一緒に戦っていた越前守護代・甲斐敏光にいきなり刃を向けたのです。
この孝景の裏切り。そして同じ頃、義政の懸案事項だった関東出兵(古河公方の反乱の鎮圧)も成功し、幕府は一定の権力を回復し始めていました。幕府権力が正常化し始めると、その権力目当てで動いていた諸大名は、自分たちの領地支配が不安になり始め、徐々に厭戦モードとなって、終息に向けて動き出しました。
朝倉氏、越前実効支配へ
幕府より守護権行使の権限を任されたとはいえ、孝景の越前支配はそう簡単には進みませんでした。まず西暦1471年(文明三年)に守護代・甲斐敏光と合戦となります。この戦いはおよそ4年間続き、最終的には甲斐敏光が遠江守護代となって転出し、越前国における朝倉氏の実効支配をほぼ確立させました。
ところが今度は斯波義敏の子・松王丸が元服し、義良と名を改めて「簒奪者・朝倉を討つべし」と自己主張しながら孝景に宣戦布告してきました。
西暦1479年(文明十一年)、9月、義良は斯波家庶流や譜代重臣を率いて越前に攻め込み、坂井郡(丸岡町)あたりで孝景と合戦になりました。戦いは断続的に二年続きましたが、西暦1481年(文明十三年)7月26日、孝景は五十四歳で死去します。
孝景の後を継いで越前朝倉氏八代当主になったのは孝景の嫡男・氏景で、孝景が亡くなった二ヶ月後、斯波義良と戦って勝ち、義良を加賀(石川県南部)に追放することに成功します。この時、義良が受けたダメージは大きく、義良は本拠(守護所)を越前から尾張(愛知県西部)に移動しています。
孝景は亡くなる前に、朝倉経景、景冬、光玖という自分の弟たちに、嫡男・氏景を補佐するように申し伝えました。三人の叔父は甥である氏景をよく補佐し、斯波氏の脅威が取り除かれた越前国の平定をほぼ成し遂げます。
しかしながら、ここで朝倉氏による「越前支配の正当性」という問題が重くのしかかってくる事態が起きます。
朝倉氏の実効支配の正当性
朝倉氏はこの当時、幕府より守護権行使の権限与えられた「守護代」の地位にありましたが、元々は足利幕府によって守護に補任されていた斯波家の家臣(陪臣)にすぎません。
応仁の乱後、日本各地の守護大名が自分の領地を自分の軍事力で守らねばならなくなり、その時流に乗った陪臣・朝倉氏も自身の軍事力で越前国を実効支配しているにすぎず、国主としての大義名分は依然として斯波家にありといっていいでしょう。
文明十三年の戦いで氏景は、越前を取り戻そうと攻め込んできた正当なる越前守護の血統・斯波義良を加賀に敗退させました。正当なる守護の血統を越前から追放したのです。再び義良が越前に攻め込んできた時、氏景の下知に従う国衆はどれほどいるのか、また守護不在を狙って、大名クラスが軍事行動を起こした時、氏景は国衆を率いて越前を守ることができるのか。
孝景の後を継いだ氏景にとって、これは頭の痛い問題でした。
この問題の解決の糸口となったのは、隣国である美濃(岐阜県南部)の斎藤妙純でした。美濃斎藤家は美濃守護である土岐家の重臣にして、守護代を務めた名家でもありました。
氏景と妙純との繋がりがどこで得られたものなのかははっきりわかりませんが、妙純が氏景の悩みの解を与えたことは確かなようです。
その解とは
「先代の越前守護・斯波義廉の子を主君に推戴すること」
でした。
斯波義廉は、足利幕府八代将軍・義政の自分勝手な都合で渋川氏から斯波家に養子入りされ、越前守護、足利幕府管領まで上り詰めた氏景の父・孝景の主君でした(その後、孝景は西軍から東軍に寝返るので、最終的には敵)。
加賀に追放されたとはいえ、血統で言えば斯波義良は正当な斯波家嫡流・武衛家の当主で、その家格の高さは足利一門の中でもピカイチでした。しかし、斯波義廉の子であれば、過去に武衛家の家督も継いだこともある上、幕府の管領まで務めており、義良に対する家格としては申し分ない存在でした。
氏景は義廉の子・斯波義俊を越前に迎え、自身の主君として推戴することで、義俊を名目上の越前守護のポジションにつけました。かつて越前守護・義廉の子であり、その義俊が氏景に対して守護権行使を行う構図は、道理が通っており、朝倉氏の越前実効支配の正当性を表す大きなものになったのです。
また、この問題の解決は、越前朝倉家と美濃斎藤家の間の結びつきを強くし、氏景は嫡男・貞景の正室に、斎藤妙純の娘を迎えています。
しかし、西暦1486年(文明十八年)、氏景は当主となってたった五年で病死しました。後継の嫡男・貞景はわずが十三歳でした。
(その3に続く)