流行病にかかってしまってまったく追いついていない本ブログ記事ですが、とりあえずドラマで華麗にスルーされてしまった戦いをフォローしつつ、適宜史料を混ぜてお伝えしていこうと思います。
なお、ここに書かれていることはあくまでも個人的見解であり、本当かどうかはわかりません(汗)
壇ノ浦の戦いに至るまでのアレコレ
西暦1185年(元暦二年)2月19日、平家の四国の拠点である屋島(香川県高松市)を襲撃した源義経(演:菅田将暉)の戦功は、3月8日に鎌倉に到着しました。
しかし、時の右大臣・九条兼実の日記『玉葉』によると3月4日の条に
とあり、鎌倉との差が四日あるのは、単なる距離の問題なのでしょうか?
同じ頃、九州の範頼は食糧不足と噂話(熊野湛増の出陣)などを、鎌倉の頼朝宛に愚痴なのかクレームなのかよくわからない手紙を送っています。
頼朝の弟可愛さなのか、12日付けで藤原俊兼(頼朝の右筆の一人)に命じて、船に食糧を積み込ませて出発させるように命じています。
同月14日、頼朝は鬼窪行親(武蔵七党野与党の一人)に命じて九州の範頼に命令書を届けさせました。そこには
と書かれており、やんわりと範頼にプレッシャーを与えています。
このことからもやはり鎌倉としての平家追討の総大将は範頼であり、義経ではないと思われます。
そんな義経は3月21 日に平家の本拠地・彦島を攻めるべく、壇ノ浦(山口県下関市)に向かいましたが、大雨で延期しています。
屋島の時は暴風雨でも強行した義経ですが、ここではおとなしく退いています。それほどすごい大雨だったということですかね。
壇ノ浦の合戦
3月22日、義経は、数十艘の軍船を率い、壇ノ浦を目指して出航しました。
この時、義経は三浦義澄(演:佐藤B作)を先導に任じています。
それは義澄が範頼に従軍していた関係で、門司の海を見たことがある経験者であるからと『吾妻鏡』は記録しています。
そしてこれを知った平家軍も彦島を出陣し、田ノ浦(豊後水道?)に陣取ったと言われます。
翌々日の3月24日、ついに壇ノ浦の戦いが始まります。
しかし『吾妻鏡』の記述は以下の様に必要最低限にとどめられています。
他の軍記物の記述も含めてこの戦いをまとめると
・戦いは正午(午後0時)から始まり、午後4時頃に終了したという説と、午前中から始まり昼頃には終わったと言う説がある。
・範頼軍が九州の陸地から平家軍に向けて大量の矢を射かけた。
・平家の水軍が熟練されており、源氏は相当苦戦した。
・平家武将、田口成良300艘が源氏に味方したため、大勢が変わった。
・潮の流れが午後に入って変わり、その影響で平家が不利になり、命運を悟った平家の人間は次々と入水した。
ということになります。
ただ、潮流が午前と午後で変わることは科学的にも間違いなさそうですが、戦闘に影響を与えるほどのものであったかどうかは疑問視されているようです。
また同様に、義経が「水手を討た」という話や「八艘飛び」の話も根拠の薄い話です。
推測話になりますが、平家の敗北は上記の田口成良の裏切りがキッカケとなり、潮流の変化が後押しして平家の士気を削いでしまった結果ではないかと思われます。
いずれせよ、この戦いによって平家は滅亡しました。
壇ノ浦のその後
この戦いの結果が京に伝わったのは、3月27日頃と思われます。
その日の前後の『玉葉』にはこうあります。
月が変わって4月4日、『吾妻鏡』に義経の使者が鎌倉に到着したことを示す記述があります。これは第一報(速報)のようです。
これを同じ4月4日の『玉葉』には下記の様にあります。
これを受けた後白河法皇は早速翌日義経に使者を送り、神器の輸送に万全を尽くすように命じています。
一方で義経より正式な報告書が鎌倉に届くのは4月11日のようです。そこには平家の方々の顛末が書かれていました。以下『吾妻鏡』の記述です。
三種の神器の保護が最優先であった頼朝にとって、義経のこの報告は相当に怒り心頭だったのではないでしょうか。
4月12日、頼朝は範頼に平家滅亡後の西国の領主の確認と行政処理の徹底を命じ、義経には平家の捕虜と神器を持って京に向かえと命じました。
これに対し、朝廷では平家の捕虜たちをどのように扱うべきかについて、またしても公家連中のオロオロ感が『玉葉』に見えます。
ちなみに、同じ日に梶原景時から鎌倉殿に屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの範頼、義経、御家人たちの動きについての報告書が届けられています。これがいわゆる「梶原景時の讒言」と言われるやつですね。
本当にこういうものが出されたのかどうかは相当に怪しいのですが、『吾妻鏡』をもとに訳してみます。
なぜ、私がこれを「虚構ではないか」と指摘するのは、前段部分の「源氏が神の保護を受けている」という信じられない様な話をツラツラと長々しく書いていることがとてつもなく嘘くさいと思っている事。
そして、義経の出兵は鎌倉殿によるものではなく、後白河院の意向によるものだと考えているからです。
鎌倉殿は範頼を西国に派遣した時から、鎌倉軍の平家討伐の大将は範頼です。それは壇ノ浦の開戦に至るまで、頼朝から義経に書状を送った形跡がないところからも明らかではないかと思っています。
義経は法皇に出兵許可を得て、讃岐屋島の平家の本拠を攻撃しています。となると、景時が義経付きであったかどうかすら怪しいです。それは一ノ谷の合戦の時の武将の配置状況からも明らかです。
なので、自分は頼朝の義経への断罪がこれらの讒言によってなされたとは考えにくいと思っています。
次の記事では頼朝の許可なく任官した御家人の頼朝の悪口雑言から書いていこうと思います。まぁ、ほんとに汚い言葉の羅列ですけどね(汗)