鎌倉最強のダーク・フィクサー義時の誕生
2022年10月2日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第38話「時を継ぐ者」が放送されました。
歴史事項で言う「牧氏事件」の本編です。
牧氏事件とは、北条時政(演:坂東彌十郎)の奥方である牧の方(りく/演:宮沢りえ)が将軍である源実朝(演:柿澤勇人)を暗殺して、自分の娘婿である平賀朝雅(演:山中 崇)を将軍(鎌倉殿)に据えようと企んだ事件です。
とはいえ、近年、牧の方がそのようなことを企んだかどうかに疑問を呈する方が増えています。
また鎌倉幕府が鎌倉殿による独裁政治機関ではなく、鎌倉殿を主君と崇める有力御家人のバランスの上に成り立っている政治機関であることを考慮した場合、実朝暗殺に大義がなく、平賀朝雅を鎌倉殿に据えたところで、やはり御家人の信を得るには難しかったのではないかと考えます。
前回も書きましたが、東国の有力御家人を束ねていたのは源頼朝(演:大泉洋)であり、有力御家人らは頼朝が自分達の土地を守ってくれる存在であるから奉公しました。彼の持つカリスマ性は鎌倉幕府の屋台骨そのものと言っていいと思います。
頼朝が急死し、二代将軍・源頼家(演:金子大地)が若くして鎌倉殿となれたのはひとえに頼朝の血統だからです。それは実朝も同じです。
北条時政と牧の方が源氏の血筋をひいている者なら誰でも鎌倉殿になれる資質があると考えていたかもしれませんが、それでは御家人は従わないでしょう。
たとえ朝雅が源氏の血筋を引いていたとしても、御家人の一人に変わりはありません。強いて言えば、御家人の中の最上位にいたにすぎないのです(いわゆる「門葉」)。
ましてや頼朝直系の血筋である実朝を殺して朝雅が鎌倉殿になる道理はありません。頼家の遺児・善哉(演:高平凛人)が生きていますから。
というわけでいろいろな意味で、この牧氏事件は無理がある企みとしか私には思えませんでした。
さて、それではドラマを振り返ってみるとしましょう。
和田義盛の乱入
前回、和田義盛(演:横田栄司)の屋敷を訪れた実朝は、三浦義村(演:山本耕史)に連れられて時政の館である名越館に拉致されました。
そしてその名越館に義盛が乗り込んで実朝を守ろうとします。
義盛が実朝が監禁されている部屋に押し入った時、時政が実朝に刃に向けていました。義盛は「何をしておられる!」と声をかけますが、時政は「鎌倉殿が起請文を書いてくれねぇからだ」と言い訳します。
すると義盛は実朝に向き直り、驚きの一言放ちました。
この当時、起請文は神仏に対して約束するものであり、主に熊野牛王符が用いられたと言われています。神仏に対しての約束であり、その約束を破ったものは神罰があたると言われました。
実朝の言っている「体中から血が噴き出して死ぬ」というのはその神罰です。
しかし、義盛には通じませんでした。
義盛が言っている「そんなやつ見たことない」は起請文を反故にした人間を実際に見て、そんな死に方したやつはいないということを言っていると思います。
実朝からすれば「そんなはずはない」と反論したいところでしょうが、時政も黙っているところを見ると、そういう認識が根強かったのかもしれません。
八田知家のナイスアシスト
北条義時(演:小栗旬)、トキューサ(北条時房/演:瀬戸康史)、北条泰時(演:坂口健太郎)と八田知家(演:市原隼人)らは軍勢を率いて、名越館を包囲しました。
トキューサが時政への説得役をかってでますが、義時は義村を信じて動きません。
義時は「このようなことをしでかしたんだ。許すわけにはいかん」と言いますが、トキューサは「父上に死んでほしくない」と抗います。義時はこの場に泰時を連れてきた理由を述べます。
これに泰時は「父上は間違っておられます」と言いますが、そこに八田知家が割って入りました。
知家の一言は、北条一門ではないから言える一言であります。
なおかつ冷静で道理的な意見であるとも言えます。
トキューサの「父上に死んでほしくない」という意見は完全にエゴです。そして泰時の「父上は間違っておられます」という意見もエゴです。しかし義時をそのエゴを捨てて、情を排してこの始末をつけようとしていました。
りくの最後の策
名越館内では義村が時政に「自分が今、ここにいるのは小四郎(義時)に頼まれたです」と理由を話し、時政はりくの館からの脱出を義村に依頼します。
時政はりくを京へ向かわせようとしましたが、りくはそれを拒みました。
りくは庶民の服装に着替えて民衆に紛れ、義村の手引きで館を脱出します。
りくが向かった先は政子(尼御台/演:小池栄子)の屋敷でした。
そこでちくは時政の命乞いをします。すべての罪は自分であり、時政はその指示に従っただけだと。
それを聞いた政子は名越館に向かいます。
義時と政子の「頼朝の見え方」の違い
義時と知家が前後策を協議している最中に政子が供を連れて名越館にやってきました。義時は「面倒な人が来た….」という表情をしながら応対します。
それは政子が何を言い出すのか、なんのためにきたのか言われるまでもなくわかっていたからです。
時政の命を助けろという政子に対し、義時は実朝を救出したら攻め込むとだけ言って政子を帰そうとします。
頼朝が義高や九郎を許すつもりがあったのは本当でしょう。
しかし、義時に言わせれば、頼朝は、かついて御家人が謀反を企んだ時、御家人に二度と反抗させないため、みせしめとして罪もない上総広常を謀殺しました。
また、範頼は一旦は許されて伊豆の修善寺に軟禁されましたが、三幡の死が呪詛であることを吹き込まれた頼朝は激昂し、結果、濡れ衣を着せられて暗殺されました。
自分の身内も容赦無く成敗する。それが義時が見てきて頼朝の姿でした。残念ながら政子とは見えていた角度が違うだと思うのです。
政子の命乞い
一方、名越館内では時政が覚悟を決め、実朝に一連の騒動を詫びました。
そして「いずれは頼朝を越える存在になられることでしょう」と言い残し、
義盛に実朝を館の外にお連れするように命令します。
無事、館の外に出た実朝と義盛は義時に保護されました。
義時は執権殿の様子を聞きますが、義盛は時政が覚悟を決めていることを伝えました。その上で「何か申していたか?」との問いに、「小四郎に伝えてくれ」とまでは言うものの、その後の言葉を完全に忘れてしまい、実朝が代弁することになります。
義時はついに軍を動かす決意をしますが、ここでまたトキューサ、政子、泰時がこれを止めようとします。
義時の言う通り、時政は死ぬ気だったでしょう。
そしてここで攻め込んで時政を討てば、身内の謀反人を討ち取ったことになり、義時の大義名分は果たせます。
泰時の考え方は身内贔屓のものであり、これまで義時が行ってきたこと(梶原景時、比企能員、畠山重忠の討滅)の整合性が取れないので論外です。
この場で唯一ロジカルな意見を言っているのは政子だと思います。
彼女は尼御台としてではなく、北条時政娘の一個人として義時に命乞いをしました。これには義時も返す言葉がなかったと思われます。
ただ、この時代、子が親を殺すことはザラだったと思いますが。
政子はいきなり兵たちに向けて土下座をしました。
これに兵たちは面食らってしまいます。
そりゃそうでしょう。この時の政子は将軍後見職であり、鎌倉の実質的最高権力者です。そのお方がいきなり土下座をし始めたらそれはどうしていいかわからなくなって当然です。
政子は土下座をしながら
とだけ言いました。
一方で館内では時政が短刀を抜き、自害しようとしていましたが、密かに館に侵入していた八田知家が時政の手をを止めました。
時政は自分の手を止めるのが誰かを見、それが知家だとわかると尚も自害しようと手を止めません。しかし知家のパワーの方が圧倒的で、やむなく手をおろさざるえませんでした。
ちなみにこのドラマの知家は若造してますが、この頃63歳だったと言われます。さらに時政は67歳です。
こうしてこのドラマの「牧氏事件」は終わったのです。
義時が泰時に見せたかったもの
一夜明け、泰時は出仕前に初(演:福地桃子)に身だしなみを整えてもらいながら「父上が裏で手を回して時政を殺害しようとするのではないか」と初にこぼします。
初は「考えすぎ」と一笑に付しますが、「お前は父上の怖さを知らない」と否定します。
これが契機かどうかはわからなりませんが、泰時の執権時代は身内(北条一族の内紛)の争いが全くありません。
義時直後に起きた伊賀氏の変は変事そのものの実在性が問われていますが、泰時は伊賀氏の血族である政村と実泰の罪を問うていません。
また、尼御台政子や大江広元が立て続けに亡くなって、幕府首脳部が一時的に人材不足になった際は、泰時は六波羅探題南方(鎌倉幕府京都南支社)を務めていたトキューサを京都から呼び戻して新しく新設した役職・連署(執権代理)に据えました。
そして揉め事が起きた際にその判断基準となる武家による法律「御成敗式目」を作り、幕政を安定に導いています。
これらが父・義時を反面教師として行ったものかもしれませんね。
時政の処分
実朝は時政の処分を軽減するように義時に申し出、頭まで下げますが義時は無表情で何も答えませんでした。
それを受けた上で、大江広元(演:栗原英雄)、三善康信(演:小林 隆)、二階堂行政(演:野仲イサオ)らとの評議の場で時政の処分の協議が行われました。
この評議の場では義時は自分の考えを言うことはできませんでした。しかし、たぶんこのドラマの中で初めて強力に自己主張をした三善康信が言っていることに誰も反対することができなかったのも事実。
いや、広元あたりが裏で康信と示し合わせていたのかもしれません。
いずれにしても、西暦1205年(元久二年)閏7月19日、時政は出家し、20日伊豆へ向かいました。
完全なとばっちりを受けた平賀朝雅
『吾妻鏡』によれば、時政が伊豆に向かったその日(閏7月20日)、義時の屋敷に三善康信や安達景盛(演:新名基浩)が集まって評議が行われました。
この場で、時政の娘婿・平賀朝雅討伐の使者を送ることが決定されました。
使者は25日に京都に入り、在京の御家人に幕府からの命令を伝えると、翌26日、早速行動を起こしています。
ドラマの中の朝雅は少々無様な死に様でしたが、史実では下記のようになっているようです。
平賀朝雅は武士ですので、それなりに戦闘は行われたようです。
一方、藤原定家の日記・『明月記』にはこうあります。
『明月記』には、実朝の加判の文書が院に送られ、朝雅は謀反人として院の命令で討たれたとあります。この部分の記述は『吾妻鏡』にはありません。
とは御家人を動かすには鎌倉殿の下文が必要ですから、そこは端折ったのかもしれませんが、『吾妻鏡』の記述では院は関係ないかのように書かれています。
また慈円の歴史書『愚管抄』も『明月記』とおなじようなことが書かれています。
この史料3点を見るに、鎌倉殿の下文で在京御家人が軍事活動を行ったこと。そして朝雅を討ったのは「金持」という武士であることは間違いなさそうです。
ただ、ここでの疑問は平賀朝雅は時政と牧の方(りく)の企みを知っていたのかどうか。『吾妻鏡』の記述だと驚きを表していないことから、以前より知っていたと思われます。
しかし『明月記』『愚管抄』の記述はあくまでも謀反人として討ち取られています。ここでの謀反が時政の連座ということであれば、首謀者の時政が流罪で済んでいるのに、企みの有無を知っているいないは関係ないでしょう。
となると、朝雅は完全に時政夫婦のとばっちりを受けた形で殺されたことになります。だとしたら、なんと憐れな存在でしょうか?
北条によって運命を翻弄された最も不幸な人物は平賀朝雅かもしれません。
継母の党とは
『明月記』にあった「継母の党」という表現は、政子・義時にとっての時政・りく夫妻であると考えられます。
前回も書きましたが、この牧氏事件が牧の方の謀略ではなく、畠山重忠の乱の冤罪の後始末だとしたら、政子・義時による時政の追い落としに他なりません。
その場合であっても、平賀朝雅の末路はたぶん変わらなかったでしょう。
『吾妻鏡』によると、この事件の翌月の8月7日、下野の御家人・宇都宮頼綱の謀反が発覚しています。
義時、広元、安達景盛が政子の屋敷に集まって、この件の善後策を協議しました。そして同じ下野御家人である小山朝政を屋敷に呼び出し、広元がこう言いました。
これに対し、朝政は
という形で幕府からの征伐命令を拒否しています。
京都女子大学の野口実名誉教授の研究によれば、宇都宮頼綱の妻は時政と牧の方の娘(八女)だそうです。つまり、政子・義時の「継母の党」の一味として扱われ、謂れのない謀反の嫌疑をかけられたのではないかというのが推定されます。
そして京で軍事活動が行われたことについては、ドラマで藤原兼子(卿二位局/演:シルビア・グラブ)こう言っています。
いやいや、それまでも何回が軍事活動はあったはずなんですけどね。義経が頼朝追討の院宣を後白河にねだった時とか、三左衛門事件とか。。。
ただ、鎌倉でおきた揉め事の余波が京都に飛び火したのはこれが初めてだとは思いました。
執権・北条義時
『吾妻鏡』によれば、1205年(元久二年)7月20日、すなわち時政が伊豆に旅立った日に義時が執権を継いだと記載されています。
しかし、近年、岡田清一・東北福祉大学名誉教授の研究によれば、1209年(承元三年)12月以前の義時の政所発給文書が1枚も現存していないことから、義時がこの時を以て執権に就いたのは『吾妻鏡』の脚色ではないかと言われています。
なので、私はこの時、義時が就いたのは執権職ではなく、政所執事の職ではないかと考えています。
この翌年1206年(建永元年)に大江広元が政所別当を辞任しており、後任の政所別当となったのが義時であると考えれば辻褄はあいます。
また、これは私個人の考えですが、執権が「権力を執行する者」であるならば、鎌倉幕府の政務、軍務両方においての権力の掌握が必要で、それには政所、侍所両方の別当職を兼ねないと成立しないと考えています。
よって義時の執権就任は和田合戦後に侍所別当に就任した1213年(建保元年)2月以前はありえないと考えているのです。
さて、ドラマでは義時はダークサードに落ちた人物のように黒装束に身を包み、自ら政務の実権を握ることを宣言します。
そこに異論を挟んだのが、前々回、稲毛重成を捕まえた長沼宗政(演:清水伸)でした。
長沼宗政は、下野小山氏の庶流で、このドラマには全く出てきませんが小山氏当主・小山朝政の弟。以前、出てきた実衣の琵琶の先生である結城朝光(演:高橋侃)の兄にあたります。
非常に気性が荒く、粗暴でその様は『吾妻鏡』にも書かれています。
ドラマでもそんな感じですね。
彼は長沼氏の初代で、後にこれが戦国大名の皆川氏に繋がっていきます。
三浦義村も宗政に同調して義時を追求します。
二人の意見はこの場にいた多くの御家人の意見を代弁したものであったと思います。
これに対し、義時は答えます。
これ、あきらかに文官トリオと義時と義村で示し合わせてますよね。
義時に大義名分が発生するように。
いよいよ執権…..いや、鎌倉最強のダーク・フィクサー義時の誕生です。