北条に正義なし
2022年8月14日、死者が家に帰ってくるという日本独特の風習「お盆」の真っ最中に、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第31話「諦めの悪い男」が放送されました。
歴史事項で言うところの「比企能員の変」です。
ただ、これは鎌倉幕府の公式の歴史書である『吾妻鏡』から見た一方的な見解で名付けられており、実際は北条時政(演:坂東彌十郎)による「比企能員暗殺事件」というべきものだと思います。
頼家の後継は一幡
ドラマの中で比企能員(演:佐藤二朗)が文官カルテットや北条義時(演:小栗 旬)の前でこう言いました。
これはドラマの中で源頼家(演:金子大地)本人も言及しており、そのために能員に武士の頂点にたつ野望が生まれたことは前回の放送で明らかです。しかし『吾妻鏡』にはそのような記載はありません。
ただ、『愚管抄』(九条兼実の弟・慈円の書いた史書)にはこうあります。
実はこのあたりの下りが『愚管抄』と『吾妻鏡』とは全く違う表現をしているところにこの変時の解釈の難しいところがあります。
頼全の死は本当に比企の仕業?
阿野全成(演:新納慎也)と実衣(演:宮澤エマ)の子・頼全(らいぜん)の死を北条時房(演:瀬戸康史)はこう義時に伝えました。
劇中ではこれを比企の指図としていますが『吾妻鏡』はこう伝えています。
仲章が頼全を殺害したのは7月16日です。
阿野全成が八田知家に殺害されたのは6月23日。
頼家が全成の処刑命令を出した直後、頼家が京にいる頼全に殺害命令を出したとして、京に届くのはおそらく7月頭。実際の殺害は7月16日。
こう考えた場合、頼全の殺害命令は頼家が病に倒れる前に出された命令だと考えるのが正しいと思われます。
これを「比企の仕業」とするのはかなり無理くりです。
ドラマとしては比企に汚名を被せないといけないわけですからわからんでもないですが。
源仲章
今回のニューフェイスは「源仲章(みなもと なかあきら)」ですね。
源仲章は宇多天皇の第八皇子・敦実親王の三男・源雅信が「源姓」を賜った宇多源氏雅信流の庶流(のちの五辻家)の出身です。
後鳥羽上皇に仕える院近臣でありながら、在京御家人の資格も持っている珍しい人材で、後に鎌倉に下向して鎌倉幕府三代将軍・源実朝の教育係を務めます。
ここでは、まぁ、顔見せ程度でしたね。
千幡の正当性
義時は、能員の企み(一幡を頼家の後継者に据えること)を止めるため、頼家の正室の子・善哉ではなく、頼朝の三男・千幡を担ぎ出すことを計画します。
私はこれを考えたのは時政だと思っています。
千幡は源頼朝(演:大泉洋)と政子(演:小池栄子)の間の2人目の男子であり、その乳母は実衣(阿波局)であることから比企よりも北条に近い存在です。
北条が将軍家外戚の地位に復権できるには、千幡に鎌倉殿に立ってもらうしかありませんでした。それが死活問題だったのは義時より時政だと思うのです。
千幡は12歳であり、年齢的には頼家の子供たち(当時5歳の一幡や3歳の善哉)よりはアドバンテージがあります。しかし「御家人たちが納得する」かどうかは義時の偏見によるところが大きいと思ってます。
理由の1つにまだ頼家が生きていること。もう1つは頼家が鎌倉殿としての嫡流であるということです。
頼家が鎌倉殿二代目である担保は「頼朝の嫡子」であり、頼朝から後継者と認められていたからです。嫡子嫡流を重んじる場合、一幡と善哉も嫡流の血統です。
さらに善哉の母親(つつじ)は、源為朝の娘であり、より強い源氏の血統をひいています。
仮に善哉が鎌倉殿となった場合、当然、後見役の三浦が力を持ちます。それはすなわち、比企と三浦が入れ替わっただけにすぎません。
となると、いずれ北条と三浦は戦うことになったでしょう。
義時はそれだけは避けたかったのかもしれません。
頼朝が亡くなり、後を継いだ頼家が重体となっているこの現状は、いくらでも体制を転覆しやすい時期と言えます。今、鎌倉がとりあえずバランスを維持できているのは、尼御台・政子によるところが大きいでしょう。
そのためには一刻も早く鎌倉殿を頂き、幕府の体制を整える。そのためには「北条が幕府の屋台骨になる」義時はそう考え、千幡擁立を考えたと推察します。
日本国2分割の提案
義時は評定の場で、1つの提案を行います。
この提案を能員は破り捨て
と言って退出してしまいます。
これは『吾妻鏡』に載っています話がベースになっています。
『吾妻鏡』では、後日、能員が娘(若狭局/せつ)に会いに来て、病床の将軍に訴えでています。
これを政子が立ち聞きして、比企の謀反が成立するのですが、そもそもこの国を二つにわける話からして無理がありすぎます。
これはドラマの中でも大江広元(演:栗原秀雄)が言っていましたね。
北条としては事を穏便に納めるため、やれる方策はやりました。
しかし、どうしても「鎌倉殿の後見役として権力の座に上り詰めたい」という能員の野望を、義時の理で挫くことはできませんでした。
義時はついに武力を用いて比企と戦う事を決意します。
能員、三浦を調略する
ドラマでは能員は三浦義村(演:山本耕史)を調略しようとしていました。
ここでの疑問は「なぜ能員は義村に話をしたのか」にあります。
能員本人が言っている通り、義時と義村は親友(というか従兄弟同士)です。いわば北条の親族なわけです。
また三浦の当主は先週義澄が亡くなったので義村ですが、三浦の嫡流は和田義盛です。味方に引き込むなら「難しいことはダメ」な義盛の方がよっぽど簡単だと思うのです。
それを能員はしなかった。
つまり比企としても、北条との争いでは完全に勝てるところまで味方を固め切っていなかったと思われます。でなければ、このタイミングで義村に話をするわけがないかなと。
時政の覚悟
義時は比企を討った後の鎌倉の体制を思案し、そのためには父・時政が重要な要素になる(ならざる得ない)ことをわかっていました。ですがそれは同時に義時の不安材料でもありました。
たとえ義時がうまくやったとしても、時政がポカをすればすべてがパァですから。
義時は時政とサシで話をし、比企を討った後、千幡を支えるのは北条であること、時政にその覚悟があるのかを問います。時政は「その覚悟はある」と答え、こうつづけます。
この言葉は第5話「兄との約束」に出てきた今は亡き義時の兄・北条宗時が義時に話した言葉と全く同じでした。
比企能員の変の『吾妻鏡』の記述
いよいよ本題です。
先程も書きましたが、この比企能員の変は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』と九条兼実の弟・慈円の歴史書『愚管抄』とでも記述が全く違います。
『吾妻鏡』には、同年8月27日、頼家の病状が重いため後継を一幡と千幡に分け、関東二十八か国を一幡が、関西三十八か国を千幡が継ぐという提案に能員がブチギレました。
9月2日に若狭局(頼家の側室)を通じて病床の頼家に目通りし、北条時政追討を訴え出て、頼家は能員に時政追討の許しを与えました。
しかし、これが政子の知るところとなり、急ぎ時政に伝わります。時政は急ぎ大江広元の屋敷に向かい、
と伝えると、広元は
との回答でした。
時政は頼家の病気平癒の願いをかけて薬師如来の開眼供養を行うこととし、能員を自分の館に招きました。栄西(臨済宗の開祖)を導師として呼び、政子も立ち合うことになりました。
比企の一族は「北条が謀略を仕掛けていないとは言えない。ホイホイ行くべきではない。行くなら一族や家来達を武装させて供につけるべき」と言いましたが、
と答えて、丸腰で時政の館に行きました。
能員は総門を入り、廊下の沓脱石に上がり、扉戸を通って北側へ歩き出したその時、天野遠景と仁田忠常(演:高岸宏行)が、門の脇から現れ、比企能員の左右の腕をつかんで、山裾の竹藪へ引きずり込んで伏せ押さえて殺害しました。
この後、比企一族は小御所(一幡の屋敷)を固めて籠城し、これを謀反と見做して政子が御家人に討伐令を出します。
戦闘は2時間ぐらい続き、比企一族は全滅という流れになっています。
比企能員の変に関する『愚管抄』の記述
一方、『愚管抄』はどうなってるかというと
『愚管抄』には、能員が謀反を起こそうとしたとか、頼家が時政追討を許したとかの記述は一切なく、むしろ比企能員の世になるのを事前に時政が手をうったと考えるのが妥当です。
ドラマの中の「比企能員の変」
1203(建仁三年)9月2日、能員の元に1通の書状が届きます。差出人は時政でした。
能員は時政に会う決心をします。
息子たちは支度をしようとしますが、「あまり物々しくするな」と能員がたしなめ、道が「鎧は?」と聞いても「丸腰で行く」と言いました。
しかし、これが完全に仇になりました。
時政の屋敷には武装した坂東武者が勢揃いしていたのです。
能員は顔を引き攣らせながら言います。
視聴者の方はここで「?」と思われたかもしれませんが、比企能員はもともと比企尼(頼朝乳母/演:草笛光子)の養子で、彼自身は阿波国の出身と言われています。なので、時政が言う通り、坂東生まれではないのです。
能員は、こう言う時のための保険として賭けた、三浦の名前を出してしのごうとします。
万策つきた能員は、仁田忠常に斬られますが、仁田忠常が「あれ?」みたいな顔をしていました。なんと能員は内側に鎧を着込んでいたのです。
屋敷中を逃げ回ったものの、羽交い締めにされ、再び仁田忠常の手で首を討たれました。
義時は能員討ち取りの報告を政子に済ませると、比企一族の族滅のため、小御所に総攻撃をかけます。そこには畠山重忠、和田義盛らの姿もありました。
畠山重忠はこの戦いの大義がないことをわかっていたのかもしれません。だが、この鎌倉で生きていくためには、北条に食らいついていくしかない。それが良いか悪いか問題ではなく……そんなことが窺えるセリフでした。
比企一族は族滅。唯一生き残ることを許されたのは当時二歳の後の比企能本だけだったと言われます。
記述の違いの理解
前述の通り『吾妻鏡』は鎌倉幕府公式の歴史書です。それゆえ、源氏ならびに北条氏は別格に扱われて書かれていると言われています。
一方で『愚管抄』は京の九条兼実の弟・慈円が描いた歴史書です。
この2つの歴史書から導かれる事実は
「比企能員は北条時政に殺害され、比企一族は滅ぼされた」
ということだけです。
その理由(経緯)については真っ二つにわかれますが、北条と並ぶほどの権勢を持った御家人は、鎌倉時代を通じて後にも先にも比企しかいません。
その比企一族や、比企の影響を色濃く受けた頼家や一幡をいかに合法的に排除し、北条に近い存在である千幡をいかに合法的に鎌倉殿就任に導くか。
そして北条の鎌倉支配の妥当性をいかにして成立させるか。
『吾妻鏡』は1300年(正安2年)頃の成立です。
時代的には北条得宗家の得宗専制体制が確立した時期(九代執権・北条貞時ないし十代執権・北条師時の時代)にあたります。
この時代背景を考えるに、上記の仮説は必ずしもあり得ないとはいえないと思います。
一方で、『愚管抄』の成立は承久2年(1220年)です。
この変事から13年後です。
なおかつ作者である慈円には鎌倉将軍家ならびに北条氏に忖度する理由がありません。
以上の考察から『吾妻鏡』の記述は北条氏にとって都合の良い「物語」であり、『愚管抄』の記述が事実に近いのではないかと考えています。
また、比企攻めに関わった御家人の名前もその真実性を高めると共に、家の家名の武勲につながったものと考えられます。
一応、『吾妻鏡』に名前のあった御家人を列記します。
江間四郎義時(北条義時/演:小栗 旬)
同太郎泰時(北条泰時/演:坂口健太郎)
平賀武蔵守朝雅(時政の娘婿/演:山中 崇)
小山左衛門尉朝政(下野小山氏当主)
長沼五郎宗政(朝政の弟/長沼氏の祖)
結城七郎朝光(朝政の弟/結城氏の祖/演:高橋 侃)
畠山次郎重忠(秩父平氏棟梁/演:中川大志)
榛谷四郎重朝(時政の娘婿・稲毛重成の弟)
三浦平六兵衛尉義村(相模三浦氏当主/演:山本耕史)
和田左衛門尉義盛(相模三浦氏嫡流/侍所別当/演:横田栄司)
和田兵衛尉常盛(義盛嫡男)
和田小四郎景長(詳細不明)
土肥次郎惟光(詳細不明)
後藤左衛門尉信康(詳細不明)
所六郎右衛門尉朝光(伊賀朝光?)
尾藤次知景(後の御内人尾藤氏の祖)
工藤小次郎行光(奥州工藤氏の祖)
金窪兵衛尉行親(侍所所司)
加藤次景廉(山木館襲撃で山木兼隆の首を取った猛者)
加藤太郎景朝(景廉嫡男/遠山氏の祖)
新田四郎忠常(仁田忠常/演:高岸宏幸)
すべたが終わった後、政子は義時に聞きました。
この現実がなんとも痛々しいです。
比奈を母上と呼んだ子供の正体
能員を討った後、義時の館ではチャンバラの真似事をする2人の子供とそれを見守る比奈の姿があります。
この子供たちは何者でしょうか?
1203年(建仁三年)時点で義時には子供が4人いました。1人は太郎泰時ですので、ここでは除外されます。そして四男・有時はまだ三歳ですので、剣術の稽古なんてできません。
となると、この2人は、次男・朝時と、三男・重時ということになります。
北条朝時(ほうじょう ともとき)
北条朝時は義時と姫の前の間に生まれた長男です。ドラマでは泰時が嫡子扱いされていますが、史実ではこの朝時が正室の子として嫡子扱いされていました。
しかし彼は成人後、御所に仕える官女にラブレターを送り、それが当時の将軍・実朝に見つかって父・義時から義絶され、駿河に蟄居謹慎となります。この時点で嫡子のポジションが泰時に移ったと言われます。
しかし和田合戦の際にその謹慎が解かれ、北条一門に復帰。
承久の乱では北陸道方面軍司令長官として大活躍をし、乱後は北陸諸国の守護職を務めています。
彼の子孫は名越北条氏となり、その元々嫡子扱いであったことからその価格は北条一門の中では高いものでした。そのため、嫡流である得宗家を敵視し、何度か反乱を起こしています(宮騒動、二月騒動)
北条重時(ほうじょう しげとき)
北条朝時は義時と姫の前の間に生まれた次男です。
重時が歴史の表舞台に立つのは義時の死後なので、ドラマの中ではほとんど触れられないとは思いますが、1230年(寛喜二年)に33歳で六波羅探題北方(鎌倉幕府京都北支社)に任ぜられ、以後、17年に渡り京都で過ごします。
1247年(宝治元年)、5代執権・北条時頼の要請を受け、50歳で鎌倉に戻り、幕府連署(副執権)に就任しました。
彼の子孫は極楽寺北条氏と呼ばれ、重時の子孫たちが新たな庶流を派生させ、下記のように執権や連署などを多数輩出する有力な一門になります。
6代執権・北条長時(極楽寺北条氏赤橋流)
13代執権・北条基時(極楽寺北条氏普恩寺流)
16代執権・北条守時(極楽寺北条氏赤橋流)
6代連署:北条義政(極楽寺北条氏塩田流)
7代連署:北条業時(極楽寺北条氏普恩寺流)
蘇った頼家
建仁三年9月5日、重篤状態だった頼家が回復しました。
「比企能員の変」改め「比企能員殺害事件」の後始末はまだ続きます。