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頼朝を支えたことで歴史に名を残した佐々木四兄弟

2022年1月30日(日)、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第4話「矢のゆくえ」が放送されました。

ドラマでは、挙兵の時期を占ったのは、りく(牧の方/演:宮沢りえ)になっていましたが、史料『吾妻鏡』では藤原邦道という公家になっています。

この藤原邦道という人は非常に謎の多い人です。
豊富な知識と達筆な文章、そして絵画などにも長けていました。

実際、頼朝が山木館を襲撃する前に、頼朝のスパイとして山木館に入り込み、屋敷の図面をほぼ正確に見取っていたと言われます。

もともとは安達盛長(演:野添義弘)の知人らしいのですが、素性がはっきりわかっていません。

ただ、初期の鎌倉幕府が役所としての体裁、体系を整えるにあたり、重要な文人だったようです。

今回の第4話では、義時たちが挙兵のための兵集めに苦労をしていますが、この時代には戦国時代のような足軽はなく、一人の武士の下に郎党と呼ばれる武装兵が数人から十数人いる程度でした。

なので、義時が最初に言った

北条から9人。仁田(にった)から4人。加藤が5人。合わせて18人。

『鎌倉殿の13人』第4話「矢のゆくえ」6:00頃

武士として挙兵に参加する豪族は3家しかいないということになります。

ちなみに仁田とは仁田忠常(演:高岸宏行)
加藤とは加藤景廉一族のことだと思いますが、まだドラマには出てきません。

なぜ、頼朝の挙兵に乗らないか、それは土井実平(演:阿南健治)の言葉に表れています。

土地はどうなるのだ?平家の好きにされぬよう、きっちりと安堵してもらえるのか?我らが案じておるのは、そこなのだ!

『鎌倉殿の13人』第4話「矢のゆくえ」15:00頃

この時代、土地なき豪族は非力でした。
伊東祐親に騙されて土地を奪われた工藤祐経がいい例です。
なので、誰に味方するにしても、負けて土地を奪われば乞食同然です。

室町時代の守護大名や戦国時代の国人領主、戦国大名なら家臣という概念がありますが、この時代にはそういうものがないので、土地を奪われれば出家するか乞食になるしかありません。

ゆえに頼朝に味方することで、平家に蹂躙されないように守ってもらえる保証がなければ、協力はできないというのも現実でした。

ドラマでは、頼朝が「お前だけが頼りだ」と説得することで多くの味方を得ていますが、これは本当に『吾妻鏡』に書かれています。

當時經廻士之内。殊以重御旨輕身命之勇士等各一人。次第召拔閑所。令議合戰間事給。雖未口外。偏依恃汝。被仰合之由。毎人被竭慇懃御詞之間。皆喜一身拔群之御芳志。面々欲勵勇敢。

(現代語訳:頼朝は自分の身の回りに居る取り巻きの内、特に頼朝様に忠義に厚い勇士を順番に自分の部屋へ呼んで、合戦の事を伝えました。「これは表向きには云えないが、汝(お前)を特に頼みにしている」とそれぞれ皆に丁寧な言葉を掛けましたので、皆、この気持ちを喜び、勇敢に頑張ろうと奮い立った)

『吾妻鏡』巻之一 治承四年庚子

坂東の田舎武士にとって、源氏の嫡流にあたる人間は非常に尊い存在であり、普段、目にすることはできない人であったため、一人一人に声をかけられれば、頑張ろうという気になったのです。

そして今回の第4回では、鎌倉幕府成立における新しいキーパーソンとして五人のニューフェイスが登場します。それが佐々木秀義とゆかいな仲間その息子たち(佐々木四兄弟)です。

佐々木秀義は頼朝の義理の叔父

佐々木秀義(演:康 すおん)
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頼朝の屋敷にひょっこり現れた、何言ってるのかわからないこの爺さんは佐々木秀義といいます。この時、すでに68歳です。

佐々木氏は源氏の一族ですが、頼朝の一族(河内源氏)とは系統が違う宇多源氏の流れです。

西暦890年代の天皇だった宇多天皇の八男に敦実親王という人がいました。

その子供が臣籍降下(皇族から臣下に降ること)して源氏の姓を下され、源雅信と名乗ります。そこから3代後の源成頼が近江国佐々木荘(現在の滋賀県蒲生郡安土町)に土着して、佐々木氏を名乗るようになります。

しかし、この秀義という爺さんは、頼朝とは深い縁で結ばれています。それは頼朝の祖父である源為義の娘(義朝の妹/頼朝の伯母)を妻にしていたからです。

したがって、彼の息子たちのうち、為義娘から生まれた

佐々木広綱(嫡男)
佐々木盛綱(三男)
佐々木高綱(四男)


頼朝の従兄弟にあたります。

平治の乱後の佐々木氏の行方

佐々木秀義も頼朝の父・義朝の郎党として、保元・平治の乱に加わっていました。平治の乱で義朝軍が大敗した際は、所領である佐々木荘を没収され、一族を連れて奥州に逃げようとしていました。

それは秀義の母が、奥州藤原氏二代当主・藤原基衡の妻と姉妹だったからです。

ところが、その途中、相模国高座郡渋谷荘(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市一帯)を領している渋谷重国という豪族の世話を受け、秀義を気に入った重国は娘を嫁がせて渋谷荘に引き留めていました。

それから20年が経ち、西暦1180年(治承四年)、秀義の息子たちはすでに頼朝と懇意にしていました。一方で秀義と重国の娘との間には五男・義清が生まれ、義清は重国の頼みで大庭景親(演:國村隼)の娘と結婚していました。

ドラマで秀義がいきなり頼朝のところにあられて、息子たちがあとからやってくるという流れになっていましたが、『吾妻鏡』によると流れは下記の通りのようです。

佐々木一族が頼朝に味方した流れ

1180年(治承四年)8月9日、秀義は京都から帰ってきた大庭景親に呼び出され、こう言われます。

「京都で上総介殿(平家侍大将の伊藤忠清)に会った時、清盛入道に報告すべき手紙かどうか迷っているものがあると言っていた。その手紙の内容は北条四郎(時政)と比企掃部允(頼朝乳母・比企尼の夫)は、佐殿(頼朝)を将軍にして、平家に反逆しようとしていると書いてあるという。

そのことについて上総殿から問われたが

四郎はすでに佐殿と縁を結んでいるがどういうつもりかは知らん。が、比企掃部允はすでに亡くなっている。

と答えておいた。しかしながら困ったよ。お主の息子(義清)は俺の娘と結婚してる。いわば親戚だ。そしてまたお主の息子たち(定綱、経高、盛綱、高綱)は佐殿と懇意にしてるらしいな。こういうご時世だ。少しは考えたほうがいいのではないかな?」

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

これを聞いた秀義は翌日10日、嫡男・定綱(演:木全隆浩)を呼び、伊豆の頼朝のところに危機を知らせています。

佐々木定綱(佐々木秀義の嫡男/演:木全隆浩)
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11日に伊豆の北条館に到着して定綱からそれを聞いた頼朝は

「そんなことはずっと前からわかっている。だから近いうちにこっちから平家に対して挙兵しようとしている。ちょうどお前のところに使いを出して呼ぼうと思ったところだった。それにしても秀義が一番先に私に知らせてくれたことはありがたい。」

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

と答え、翌12日に17日の挙兵を決め、岡崎義実、佐那田義忠の兄弟、土肥実平らに使いを出しています。

しかし定綱は身一つで来てしまったので、戦支度をしておらず、このままここに居ても役に立たないため、一旦、父の元に戻ると頼朝に伝えると、ではこれを持って行けと、渋谷重国への手紙を託され、

「必ず16日までに戻ってこい」

と念押しされました。

16日は大雨でした。そして佐々木定綱は16日までに戻って来ませんでした。兵は多いほど良いため、17日の明け方に山木館を責めることを頼朝は躊躇します。
ここで頼朝の心に邪念が生じます。

「渋谷はもともと平氏に恩を感じている家。縁者となった佐々木も渋谷に同調したか。迂闊だった。あのような者に挙兵のことを伝えるのではなかった」

日が変わって17日の14時頃、佐々木定綱、佐々木經高、佐々木盛綱、佐々木高綱の四兄弟がようやく頼朝のもとに到着しました。
頼朝は

「おぬしたちのせいで今日の挙兵が無駄になった。残念だ」

と涙し

「申し訳ありません。(大雨による)洪水のために遅参しました」

と詫びました。
この日の夜、頼朝は伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃します。
その際、佐々木四兄弟は時政の指示で、兼隆の後見役・堤信遠の屋敷を急襲することになります。

ドラマでは時政、宗時、義時が佐々木四兄弟と共に堤の屋敷を襲ってますが、これは創作ですね。

その後の佐々木四兄弟

この戦い以後、佐々木四兄弟は頼朝の東国政権樹立と平家打倒のプロジェクト達成のため、獅子奮迅の活躍をします。

佐々木秀義(四兄弟の父)

頼朝が再起した富士川の合戦(1180年11月9日)の後、佐々木荘を安堵。
1184年(元暦元年)の三日平氏の乱の鎮圧時に討死。享年73。

佐々木定綱(嫡男)

頼朝に従って戦い続け、平家滅亡後、近江(滋賀県)、長門(山口県北部)、石見(島根県)、隠岐(島根県)の4国の守護職に任命されます。

しかし1191年(建久二年)、次男の定重が延暦寺と揉め事を起こし、守護職を解任され、薩摩国(鹿児島県)に流罪となるが2年後に近江守護に復帰。
その後、検非違使(左衛門少尉)となった後、従五位上に叙されました。

佐々木経高(次男/第4話で最後の矢を放った男)

1182年(寿永元年)、淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)、土佐(高知県)の3国の守護職に任命されます。

しかし1199年(正治元年)1月、頼朝死去後に京都に兵を集めたことを後鳥羽上皇に咎められ、守護職を解任され、出家。その後阿波のみ守護職復帰。

佐々木盛綱(三男)

頼朝の側近の一人として数々の活躍をし、1185年12月7日、備前国藤戸の戦いで源範頼に従って軍功を挙げ、備前国児島荘(児島半島)、越後国加地荘(新潟県新発田市)、上野国磯部荘(群馬県安中市)の地頭職に任命されます。

三男でありながら軍功は四兄弟でピカイチです。

佐々木高綱(四男)

1185年、左衛門尉に任官後、翌年1186年、備前(岡山県東南部)の守護職に任命されます。

その後の佐々木氏

佐々木四兄弟は頼朝の偉業を支えたのは間違いないですが、後鳥羽上皇が北条義時を追討した「承久の乱」で嫡流・佐々木定綱の嫡男・広綱は官軍(後鳥羽上皇)に味方して敗れ、捕まって斬首になります。
(定綱弟の経高とその息子・高重も官軍に味方して討死にしています)

その後、佐々木氏嫡流の家督は、幕府軍に味方した定綱三男の信綱が継ぎました。

信綱は承久の乱の戦功で、近江国内の数多くの土地の地頭職に補任されましたが、1232年(寛喜四年)近江守に叙任されます。

そしてその子たちが分家して新しい家を興します。

佐々木重綱(嫡男→廃嫡):大原氏の祖
佐々木高信(次男):高島氏の祖
佐々木泰綱(三男→嫡男):六角氏の祖
佐々木氏信(四男):京極氏の祖


ちなみに大河ドラマ『太平記』(1991年)で、足利尊氏に味方する親友・佐々木道誉(演:陣内孝則)という人物が出て来ますが、それは上記の佐々木氏信から3代後になります。

それぞれの家は紆余曲折がありますが、大原、高島、六角の三氏は戦国時代までは命脈を保ち、京極氏のみが江戸時代を通じて大名として存続しました。

嫡流以外の佐々木兄弟の血統

秀義の三男・盛綱の血統

嫡男の信実が、1190年(建久元年)に幕府役所内で行われた双六大会で工藤祐経に侮辱を受けて、石で祐経の額を割るという不始末を起こして盛綱から絶縁されています。

しかし、承久の乱で北条朝時(泰時弟)の補佐として従軍し、越後願文山城を落とす功績を上げて備前守護職に任命され、その子孫たちは越後揚北衆となり、越後上杉氏の家臣となっています。

秀義の四男・高綱の血統

嫡男の重綱が1203年(建仁三年)10月、延暦寺との騒動で討ち死にした後、次男の光綱が継いでいます。
その後叔父・義清の娘と結婚して、義清の猶子になり野木氏を興しました。

秀義の五男・義清の血統

秀義五男で、渋谷重国の娘を母に持つ義清は、石橋山の戦いで舅である大庭景親に味方しますが、後に頼朝に臣従。奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦で有力御家人の一人となります。

承久の乱の後、出雲、隠岐の守護職に任じられ、出雲源氏(隠岐氏、塩谷氏、富田氏、佐世氏、宍道氏、末次氏など)の祖となりました。

今日の放送でなにやら死亡フラグが立っている人がいますが、どこまでやるのか。。。興味深いです。




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