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第7話「手痛い敗北」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1560年(永禄三年)12月、すなわち先の「門司城の戦い」から1年後、安芸・周防・長門(山口県と広島県)の戦国大名・毛利元就は、再び豊前攻略の活動を開始します。

左衛門督任官

元就は、毛利氏家臣・仁保隆慰(にほ たかやす)に命じて、門司城を攻撃させました。仁保はゲリラ戦法を駆使して、大友方の守将・怒留湯直方を翻弄し、奇襲攻撃を敢行。再び門司城を毛利氏の持ち城にしてしまいます。

そして門司ならびに豊前・筑前の国衆(国人領主)たちは、また毛利家に鞍替えます。この辺り節操がないといえばないですが、力のない者は力ある者の庇護を受けて生きながらえるのは致し方のないことです。

一方、この年、大友義鎮は足利幕府より「左衛門督(さえもんのかみ)」という官位に任ぜられています。

「左衛門督」とは、平安京でいう衛門府(えもんふ)という都の門を司る部署の最高責任者を指し、足利幕府においては代々三管領(管領になれる斯波、細川、畠山の三家)である畠山嫡流が任官していた官位でした(細川家の左京大夫と同じですね)。

そのため、畠山家嫡流は「畠山金吾(きんご)家」とも言われます。「金吾」は左衛門督の唐名(中国での名称)のことです。

ところが、畠山嫡流は応仁の乱の騒動後、総州家と尾州家に分裂したため、左衛門督を受け継ぐ家がなくなり、そのプレミアム感がなくなっていたようです。現に、越前の戦国大名・朝倉義景の補任も記録されています。

しかし、これまで大友家は三代に渡って「修理大夫」の官位を授けられており、今回、義鎮に「左衛門督」という畠山嫡流の官位を与えられたのは、足利幕府への忠節と献金等の努力の結果だと推察されます。

門司城再び

さて、門司城を落とされた義鎮はその対応策として、翌年西暦1561年4月、戸次鑑連らに約六千の軍勢を与えて豊前香春岳城(福岡県田川郡香春町)を攻めています。城主の原田義直は前述の毛利に鞍替えした国衆の一人でした。

7月に入ると、田原親宏に軍勢を与えて小倉に駐屯させると、翌月8月に、大友軍の本隊として1万5千兵を出陣させています。この時の参戦武将は

吉岡長増(義鎮家老<政務担当>/大友氏庶流)
臼杵鑑速(義鎮家老<外交担当>/戸次氏庶流)
志賀親度(豊後国衆/北志賀氏嫡流)
朽網鑑康(豊後国衆/朽網氏嫡流/義鎮傅役・入田親誠の弟)
吉弘鎮信(義鎮家老<軍事担当>/吉弘氏嫡流)
戸次鑑連(戸次氏嫡流/大友家中最強の武将)
田北鑑生(義鎮家老/大友氏庶流)


という大友家精鋭部隊とも言えるラインナップで向かわせています。

対する毛利元就は、毛利隆元(元就嫡男)小早川隆景(元就三男・小早川家当主)に1万8千兵を与え、長門国(山口県西部)に向けて出陣させました。隆元は防府大専坊(山口県防府市防府天満宮)に陣取り、隆景が約1万兵を率いて門司城に向かいます。

第三次門司城の戦い

隆景が関門海峡付近に到着した際、すでに門司城は大友軍によって包囲されていました。毛利の大軍を以って包囲部隊に突入して突破できないことはないですが、兵の損耗も多いことを懸念した隆景に、掘立直正(毛利家中における武力を保持した商人/赤間関の代官)が決死の突入隊を編成し、門司城内と連絡をつけることを献策します。

直正の策に乗った隆景は、同年9月13日、直正と杉重良(豊前守護代杉氏の末裔)らの手勢合わせて八百で突入隊を編成。これが門司城包囲網の隙をついてなんとか城内に突入。城内に隆景の攻撃方針の伝達に成功しました。

城内突入を狼煙で知った隆景は、毛利水軍の指揮官である児玉就方ならびに能島水軍の頭領・村上武吉に、水軍数十艘を率いて豊前蓑島(福岡県行橋市蓑島)への攻撃を命じ、両者は28日に上陸。

これにより門司城を包囲している大友軍の背後が撹乱され、一刻も早く城地回復に受けた行動をとる意見が諸将から出始めました。その影響か、大友軍の一部の兵が城の南側の豊前沼(現存していないと思われる)周辺の毛利軍と交戦状態になりますが、小競り合いで終わっています。

大友軍としても、門司城を囲んで間もなく2ヶ月になり、補給(食糧)の問題が生じ始めました。また包囲するだけで特段戦いもない長滞陣は士気の低下も招き始めていました。

(何か手を打たねば......)

大将格の田原親宏は焦っていたところ、田北鑑重(田北鑑生の弟)が三角山城の武将を大友方へ味方させることに成功したと報告してきました。

三角山城とは門司城の南南西4kmほどの地点にある門司城の外城の1つで、今は毛利家の杉彦三郎が守将として入っていました。

門司城を包囲しているのは大友軍ですが、関門海峡の長門国側には小早川隆景率いる毛利軍の本隊がおり、そして門司城の南西の三角山城にも毛利軍の別働隊がおり、さらに豊前蓑島(福岡県行橋市)には児玉就方&村上武吉による毛利水軍が大友軍の背後を牽制しており、気がつけば、大友軍は大きく毛利軍に囲まれている状態でした。

そんな中、三角山城の武将の調略に成功したという報は親宏だけでなく、大友軍の諸将に明るい兆しを与えるものでした。少なくとも門司城の南西は味方ということがわかったわけですから。

「頃はよし!総攻めの用意!」

10月2日、大友軍は門司城包囲しながら残りの戦力を門司城の麓に集結させ、毛利軍がいつ攻め寄せても応戦できるような体制を整えました。決戦の準備が万全の状態でした。

小早川隆景の罠

ところが、三角山城の守将・杉彦三郎は、自分の家臣である稲田重範葛原兵庫助が田北鑑重の調略にかかっているのではないかと疑念を持っていました。そのことを関門海峡の向こう側(長門側)の隆景に報告すると

「敵が何を考えているのかを知るいい機会だから、泳がせろ」

という下知が届いたため、彦三郎は二人を泳がせ、大友軍にどう渡りをつけるのかまで把握しました。その間、逐一隆景に報告しており、ついに

「もう用はない。その二人を殺せ」

と彦三郎に命じたため、稲田重範と葛原兵庫助はあえなく斬殺されます。
10月9日のことでした。

「大友の奴らに、お前らのやってることは児戯であることを思い知らせてやるわ」

二人の殺害報告を受けた隆景は、そう言いながらほくそ笑みました。

翌10日、三角山城から一本の狼煙が上がりました。それを見た大友軍の田北鑑重は

「狼煙が上がりました。今こそ総攻めの仕掛けどきです!」

と兄である田北鑑生に言上すると、それを聞いていた親宏も立ち上がり、

「総がかりじゃ!」

と諸将に檄を飛ばしました。
大友軍は待ってましたとばかりに門司城に総攻撃を行います。しかし、寄手は城の中から弓矢や鉄砲が大友軍に目掛けて凄まじい勢いで打ち掛かってきました。

「こんなバカな.....」

田北鑑重は味方がどんどん倒れていく姿を見て、立ちすくんでいました。
当初の予定では城の防備の一番薄いタイミングを見計らって狼煙で知らせるという流れになっていました。しかし、今の状況を見る限り、城の迎撃体制は万全と言えるものでした。

さらに、大友軍にとって予想もしなかったことが起きました。毛利本隊の小早川軍が約1万が関門海峡を渡って、大友軍に攻めかかってきたのです。

西に毛利軍本隊からの攻撃が仕掛けられ、東からは門司城守兵からの攻撃を受け、大友軍は完全に挟み撃ちの状況に追い込まれました。

また、豊前蓑島の毛利&村上水軍に、浦宗勝(小早川氏庶流)率いる小早川水軍も加わって、大友軍の豊後方面の海上を完全に断ってしまったのです。

小早川隆景は、大友軍に寝返った稲田重範と葛原兵庫助の両者が内応した手はずを逆手に取り、大友軍に向けて虚偽の狼煙をあげさせ、完全に「袋の鼠」に追い込んだのでした。

大友軍の敗北

大友軍は一旦軍勢を撤退させ、10月26日に体勢を立て直して、再び門司城を攻撃しました。この時、小早川隆景はすでに門司城に入っており、城兵は隆景の指揮の元、必死に防戦を試みます。

大友軍は前回の深追いの反省から臼杵鑑速、田原親賢(田原氏庶流)らの鉄砲隊と、戸次鑑連の強弓隊を前面に立てて、城と適度な距離を保ちつつも的確な射撃で城兵の命を奪っていきました。しかし日没までに城を落とすことはできず、一旦、内裏(福岡県北九州市門司区大里)に撤退します。

大友軍の軍議では、このまま戦いを続けるか、それとも一度豊後に退却するかに意見が別れていました。しかし、すでに3ヶ月に及ぶ長滞陣に加え、ロクに戦果のない状況では、このまま戦いを続けても状況が好転する見込みはほぼありませんでした。

そしてこの間、毛利はさらなる手を打っていました。
大友軍の背後に位置する豊前松山城(現在の福岡県京都郡苅田町)馬ヶ岳城(福岡県行橋市津積馬ヶ岳)の攻略を開始していたのです。

状況は、どう見ても大友軍の分が悪いとしか言いようがありませんでした。

同年11月5日、大友軍は門司城の包囲を解き、豊後へ向けて撤退を開始しました。これを見逃す隆景ではなく、吉見正頼(石見津和野城主/吉見家当主)らに命じて追撃を行わせています。

また、大友軍の一部が豊前蓑島を抜けて国東方面に撤退しようとしたため、蓑島付近に駐屯していた毛利・村上・小早川水軍の強襲を受け、多くの大友家武将と兵を損耗してしまいました。

この第三次門司城の戦いは、大友義鎮の完全な敗北でした。
家督相続からこの第三次門司城の戦いまで、ほぼ負け知らずで勝ち上がってきた義鎮にとって、非常に手痛い敗北でした。

そしてこの敗戦は、筑前、豊前の多くの国衆に動揺を与え、彼らは毛利家の支配下を受け入れるしか生き残る道はありませんでした。同時に大友氏に味方する国衆は、毛利氏の影響に怯えながら、ひっそりと生きながらえるしかなかったのです。

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