【理想の三線探偵団10】 三線・三味線は、結局「棹」なのか「胴(皮)」なのか?!
理想の三線を求めて、あれやこれや考えるこのシリーズも、10回目に突入です。
と、ここで三線界、三味線界に根付いている
「究極のテーマ」
について取り上げてみたいと思います。
それは表題の通り、
『三線や三味線は、結局「棹」なのか「胴(皮)」なのか』
という大問題です。
三線業界では、棹の材質、棹のクオリティこそが重要という風潮がありますが、それは三味線界でもまったく同じです。
◆ 三線なら「黒木(黒檀)」「ゆし木」「それ以外」といった材のランク分け
があり、
◆ 三味線なら「紅木」「紫檀」「花梨」といった材のランク分け
が厳然として存在します。
三線の場合は八重山黒木が最上、三味線の場合は紅木が最上という点は変わりませんが、ランクを落としてゆく中で三線でも「紫檀」棹が登場したり、「鉄木」や「樫」なども使われることがあります。そのあたりはややバリエーションがあると思います。
この棹至上主義とも言うべき風潮は、別に批判・非難されるべきものではありません。というのも、実際にそれらの上級棹に触れてみるとわかりますが、ランクが低い木材で作製したものとは、絶対に演奏感や振動が異なるのです。科学的に言えば、上級とされる木材ほど繊維・導管が詰まっていて、おなじ体積に対しての質量が重く、音を出す上での振動に少なからぬ影響を与えると断言できます。
しかし、気をつけなくてはいけないのは、
「ざっくりといえば、上級な木材ほど、理想的サウンドを出せる可能性が高い」
というだけのことで、実際には、
「中ランクの棹材でありながら、上ランクの棹材以上のサウンドを出す個体は存在する」
し、なおかつ
「上ランクとされる希少材の希少姓における”価格”とサウンドの良し悪しは正比例しない」
ということも言えます。
このあたりは、バイオリンのように、「ストラディバリウスは、ほぼ必ず、新作の入門者用楽器より良い音を出せる」ということとは違いますね。
”八重山黒木の棹が、ゆし木のものにサウンドで負ける”
ということは十分起こるからです。
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実際問題としては、三味線系楽器のサウンドを確定するのは棹ではなく「皮(胴)」です。
ですから、猫皮のものと犬皮のものは、素人でも聞き分けられますし、本皮のものと人工皮の違いは、素人でもわかります。
もし胴や皮に決定権がないのであれば、誰も本皮と人工皮で悩んだりしません。
あるいは盛嶋開鐘の胴に特殊な細工がしてあることは、ちょっとしたお洒落程度に過ぎないことになってしまいます。
本州の三味線でも、胴の中に綾杉彫りといって彫りこみを行いますが、どうして偶然にもどちらの楽器でも「胴に彫りを入れる」という行為を行うのか?という謎が生まれます。
いやいや、そこにはかならず意味があり、胴や皮は重要な要素なのです。
とすると、
「じゃあ、結局サウンドを決めるのは、皮(胴)じゃん!!」
ということになってしまうわけです。
この難問については、おそらく結論は
「皮ありき」
です。その楽器のサウンドの90%を決めるのは胴と皮の状態であり、棹は残りの10%を左右するにすぎません。
だとすると
「三味線系楽器の価値は棹で決まるという風潮とは、現実は真逆である」
という恐ろしいことになってしまうわけですね。
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より細かいことを言えば、三線の場合は沖縄県立博物館の調査で「胴にも銘が入っている作例がある」などが確認されており、棹よりもたしかに着目されにくいものの、一定の尊重がなされていることが歴史の上からも証明できるそうです。
では、なぜ三味線系楽器では、「胴」は軽視される傾向にあるのでしょうか。それはとても単純でシンプルなことで
「皮は破れる」
からです。
その楽器の最高の個性である「個別のサウンド」を決定するのが皮であるとしても、そのサウンドは永遠ではなく、破れることで失われます。
あるいはご承知の通り、三味線系楽器は湿度や環境によって、そのサウンドが大いに影響されて変化するという難点があるのです。
とすると、おのずと一つの楽器に
「不易と流行」
の部分が生じ、永遠に不易であるのは、棹の部分である、という哲学になってしまうのは、自然なことではないでしょうか。
これが「棹至上主義という風潮」へと繋がってしまうわけですね。
では、その楽器の固有のサウンドを出す要素の大半が「皮(胴)」にあるのに、棹のみが特別視されることは、矛盾するのでしょうか?
争いを避けるように言えば
「いやあ、それはバランスってもんですよ」
なんてまろやかにぼかして言うこともできるでしょうが、実はそれも違います。なぜなら、誰も「そのバランスが丁度いいポイント」を説明できないからです。
棹と皮のいちばんいい具合は「どこ」なのか、実は誰にも説明できないので、この言い訳は怪しいのです。
現実には、八重山黒木の棹に人工皮を張ってもいいし、樫棹に本皮一枚張りを施してもかまいません。
そして、前者はやっぱり人工皮の音がするし、後者はやっぱり本皮の音がするのです。バランスがいいポイントなんて、その2つの間には存在しないのです。
(↑はっきり言い切りましたが、実際の音を想像してもらえば、この2つが交わらないことはすぐ理解していただけるでしょう)
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では、棹と皮(胴)はいったいどういう関係性の上で成立しているのでしょうか。それは「ベース(基盤)」と「カスタム(調整)」の概念に近いと思います。
エレキギターを触っていると、レスポールやストラトキャスターといった、ベースとなる形状がいろいろ存在することがわかります。
しかし、それらのエレキの
「サウンドを形作っているのは、楽器の形状ではない」
ということもまた言えます。(いやいや、厳密には、レスポールにはレスポールの音があるし、それは形状ともわずかに関係するのですが、それは10%くらいで90%は別の要素があります)
ギター弾きなら、この時点でニヤリと笑顔が出るでしょう。そうです、レスポールとストラトのサウンドの違いを生み出している90%の要素は
「ピックアップの構造=ハムバッカー(ダブルコイル)かシングルコイルか」
ということに気付くからですね。
三線や三味線の話に似てきました。エレキギターのサウンドの肝となるのは、まずピックアップの構造だ、ということです。
なおかつエレキの場合は、2つもしくは3つのピックアップのどこの位置の音量を重視するかでサウンドが変わります。フロントなのか、ミドルなのか、あるいは全部かなどなど。まさに、不易と流行です。
エレキギターの場合は、棹(楽器の形状)が定まっていて、それに対してピックアップをどう使うかでカスタマイズが可能であり、そしてサウンドが定まってくるということがわかりました。
ピックアップはカスタマイズですから、ストラト風の棹にダブルコイルを搭載することだって可能です。レスポール型の棹に、シングルコイルを搭載したモデルだってOKです。
三線・三味線と皮の関係は、まさにこうしたものであり、つまりは
「カスタマイズ」
なのです。ただし、時間の概念が大きく異なります。
ギターの場合は演奏ごとにセッティングを替えられますが、三線や三味線は「張替えごとにしかセッティングを変えられない」という長いスパンに規定されている、ということなのです。
従って演奏者は
「次回の張替えの際には、こういうセッティングにしよう」
と長い時間軸で物事を考えていることになるでしょう。
あまり、そういうことをする人がいませんが、究極的には、1つの棹に対して3つくらい胴があって、都度チェンジしたっていいくらいのイメージでしょうか。
皮は「カスタマイズ」である、というのはそういうことです。
そうすると、そこではじめて「楽器は棹だ」ということが生きてくるのです。皮・胴は確かに音を決定づけますが、エレキギターでエフェクターをかけて音を変化させるように、それは「一時的な個性」に過ぎません。ピックアップのセッティングも同じで、「今という瞬間の個性」です。
しかし、その時弾いているのはやっぱりレスポールであり、”唯一無二の棹”であることは変わりません。ここが不易です。シングルコイルを搭載したレスポールを弾いていても、弾いているのはやっぱりレスポールであり、けしてコイルのしくみで「テレキャスターになってしまう」なんてことはないのです。
同じように、黒木の棹が持つ唯一無二の個性がベースにあって、それをたまたま今の胴・今の皮の状態でカスタマイズしている、と考えれば、
「やっぱり、軸とすべきは棹なんだ」
という発想が、間違っていないことに落ち着くでしょう。
今回は小難しいことを書きましたが、三味線にしても三線にしても、長い歴史の中で、「結局そういうことだよね」という部分に落ち着いていったのだと思います。だからおのずと「棹信仰」が形成されていったのでしょう。
現在でもギタリストは「好きな形状」にこだわる傾向にあります。そこからピックアップやエフェクターといったカスタムの部分に広がりを見出すのです。
余談ですが、わたくし左大文字の場合は、材の質よりも「微細な形状」にこだわりが出てきました。弾きやすい棹の形状、細さ、重さなどがたしかにあります。おなじ真壁でも、微細な違いが手の吸い付き度合いを違えるというか、そんな領域に差し掛かってきた次第です。まだまだ理想の棹を探してゆきます(^^