数値化の罠
この記事は数値化、データ化を重視しすぎる社会への反対意見になります。
ミソは「しすぎる」というところで、数値化データ化意味ない!みたいな過激派ではないです。バランスが大事。
さて、私たちは何かの意見や社会の動きに対して、これは危険な思想だとか、良くないなと思うことがあると思います。
たとえば、タバコを吸う人と吸わない人の対立構造があった場合。
これをデータで戦うと、どちらが嫌だと思っているか、仕事を出来ているかという戦いになり、どちらが勝ってもどちらかが一方的に我慢せざるを得なくなります。
間を取るのも言語道断。両方が我慢しましょうという結果になります。
一見正しそうな、データや数値で争うことなのになぜこんな事が起きるのか。
これば、タバコや起こった問題への対立構造ではなく、自分にとって不都合なデータや数値でも感情を置き去りにできるか出来ないかの対立構造だから解決しないんだと思います。
これはどちらが正しいかではなく、どちらの人間も存在するという事を認識すべきだという事です。
私たちが解決すべきは、今自分と自分以外の人間がいる環境で1番気持ちよく過ごせる方法は何なのかを考える事で、数値を持って相手を倒す事ではないし、自分の辛い状況を利用して感情に訴えかけて社会的に倒す事でもありません。
なぜ数値化に寄る事を危惧しているかというと、一見正しそうだからです。それと同時に正しいからです。
やっぱり数値化すべきじゃないか。
違うんです。
我々は正しくあっても不幸であれば受け入れないんです。
能登の災害復興も、政府は費用と安全面から最も正しい正解を出すために慎重に議論を重ね、少しずつ復興をしています。早1年。街は災害時のような景色が残っている場所もあります。
彼らにとっての表向きの正しさはここにあります。
さて、これを受け入れている国民、能登の方はどれだけいるでしょうか?
もし、災害後、緊急として金や人を一気に使って復興した後、国民に税金を求めた場合どんな結果になるでしょうか?
大批判をうけるかもしれないし、称賛されるかもしれません。わかりません。
データは確実性や再現性があるので、どうしても感情の持つ不確実性にベット出来なくなってしまうんです。
ここが1番の問題です。
知能も感情も持つ人間の中で生きるはずなのに、感情を置き去りにして得た答えは、本当に正しいと言えるのか?
私たちにとって、100年後の未来を見た時に正しい事が重要だと本心から言える人はどれだけいるのだろうか?
私の結論としては、データや感情をテーブルに上げて議論の末に正確ではない結果を用いて、自分達の空間だけに特化した納得感がなんとなくある結論を導くことが重要なんだと思っています。