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「予備校文化」と奥井潔先生

5月の連休中にゲンロンカフェから配信されたトークショー『予備校文化(人文系)を「哲学」する』(駿台予備学校から入不二基義、大島保彦、霜栄の各氏が登壇)は、自分の半生を振り返るきっかけとなった。

わたしにとって予備校生として駿台に通った1年間は大きな意味をもっているのだが、これまでその体験を「予備校文化」として意識することはなかったからこの問題提起は新鮮だった。そして「文化」と捉える以上「高校卒業後大学に入るまでの猶予期間」に限定されるものではなく、以降のわたしの人格形成に影響をおよぼしつづけているものとみるべきであり、自分の内面深くを流れる通奏低音にはからずも気づかされてしまったような、興味深い時間となった。
そしてわたしにとっての「予備校文化」は教養主義と名づけてよいだろうと考えた。

むかしもいまも高校生は浪人することを「人生の挫折」と捉える向きがあるようだが、わたしはちがった。現役で進学していった同窓を羨望しつつも、駿台にあと一年通うことが決まったとき、じつは心躍ったのである(両親への最大の感謝はこれかもしれない)。

それは、高校2年から通った駿台で何人かの印象的な講師の授業を体験し、6年間ついに一度たりともわたしの内奥を揺さぶることのなかった中学高校の教師たちとのあまりの違いに陶然とするとともに、あと一年駿台で学ぶことができれば人生の行き方が見えてくるにちがいないと確信していたからである。知的好奇心なるものに気づきはじめた高校生にとって、現役生として駿台で過ごした時間はあまりに短かったのである。
お茶の水アカデミー校舎の時間割を手にして講師陣の名を見たときの胸の高鳴りはいまでも覚えている。

そしてその夏、「予備校文化」を象徴する伝説の英語教師に出会うことになる。
奥井潔先生である。

長身痩躯、満席の受講生のまえにふわりと現われると、教壇から降りては教室内を優雅に歩きまわり、板書は必要最小限、すでに何百回と講義してきたであろう英文をほとんど諳んじるように自在に読み解き、深みのある目で生徒を射るように見つめ、よく通るやや高い声に抑揚を利かせて語りかけ、しかし高みからものを言うというのでは全くなく、視点はつねに生徒の位置にあって時には自嘲して笑わせながら、いまから思えば桑楡まさに迫らんとしていた老教師は、自らがいくつかの偶然により九死に一生を得た先の大戦で命を落としていった同輩と変わらぬ若者たちに向けて、ひとが生きるとはどういうことなのか、まさに遺言のように語ったのだった。

夏期講習の「長文読解演習」は7題。
ウィラ・キャザー ”Obscure Destinies”より、長年寄り添った夫婦の人生観について、
ロバート・リンド ”The Shy Fathers”より、一見傲慢に見える父親が心中密かに隠す弱々しい自意識について、
ハーバート・リードの文章から、芸術家が作品を通じて伝えんとしていることを見抜く力について、
チャップリンについて書いたモームの文章から、ユーモアの土台にある悲しみと人間観察力について、
ハクスリーの文章から、感情を合理化し永続させる思想の役割について、
エリオットの文章から、読書によって批評力をつけることの大切さについて、
そしていまや「奥井の名講義」として必ず言及される「ワークとレーバー」を定義した文章から、生きがいとなる仕事(ワーク)を青年期に発見することの必要性について、
滾滾と湧きでる泉のごとき語りが6日間にわたってつづいたのである。

いまも残るノートを見返すと、19歳のわたしは、駿台で日々鍛えられた構文把握力を駆使して日本語訳を用意して授業に臨み、赤や青のペンで修正を加えながらまじめに「長文読解演習」に励んだようである。たしかに各文の構造は、難解と言われた通年教材「CHOICE EXERCISES」よりは平易に見えたから、構文がつかめればあとは知らない単語を辞書で確認して訳文は出来上がるはずであった。
しかし記憶に残るのは、構文把握や和訳の成否ではなく、読みの甘さを一文一文思い知らされた、甘酸っぱくも苦くもある想い出である。
わたしの皮相な訳文には先生が語るような身体性は伴っていなかったし、作家の主張の要諦を正確に捉えることもできていなかった。
原因は、既知の単語でも訳語の選択が少しずれることでその後の読解がおぼつかなくなったり、曖昧な箇所をよく吟味せずにすませてしまっているためのように思われた。

先生が世に名高い名文家の、構文としてはさほど高度とは言えない作品をもって伝えようとしたのは、訳語を当てることができても読めたことにはならない、その内容を自分の身に引き寄せて考え、心の中でふかく感じることなくしては文章を読んだことにはならないということだった。
抽象的な概念を表わす日本語の多くは明治以降の翻訳語であるから、基になる西欧語の意味と用法がしっかりと分かっていないと日本語の運用もおぼつかないのだ、君たちが外国語を学ぶのは日本語を正しく使えるようになるためなのだとおっしゃった。

英語にすこし自信を持ちかけていたわたしにとって、これは少なからぬ衝撃ではあった。しかし、何も知らず非力で無学な自分への絶望はなかった。「受験英語」など存在しない、いまは受験のための英語学習も論理的思考力や感受性を養う訓練なのだと解ったからである。
テキストに採られた作家も、先生が語りのなかで触れた他の思想家や芸術家もその多くは知らなかったが、人間の根源的な問題は既に先人によって考え抜かれ、その思索の軌跡は書物や芸術作品というかたちで遺されていると知ったことも我が心中に灯った希望のひとつだった。いつかそれを自分の力で読んだり鑑賞したりしてみたいと思った。そのための勉学であれば、それは立派な「ワーク」なのではあるまいか。
まだ何も見えなくとも、目指すべき方角に確信を得たとき、ひとは希望をもつのである。

<人間は孤独では生きていけない。しかし最後に信頼できるのはじぶんひとりなのであります。真に大切なことは自分の書斎で孤独の中、独り発見するしかないのであります>

そう言いおいて先生は、またふわりと羽ばたくように去っていった。
知的謙虚さとでもいうべき理に誠実な態度、先人の智慧に向ける深い敬意と愛情、人生で初めての躓きを経験している後進をユーモアを交えて励まし、希望の在処を指ししめす勁い精神ーー奥井先生はわたしが目にした初めての教養人だったのだとおもう。

「CHOICE EXERCISES」は先生の担当ではなかったから、わたしの先生との関わりは夏期講習のわずか1講座に過ぎない。よく語られる「伝説」や「名言」も多くは知らない。
しかし、大学に進学してから、加藤周一が旧制一高の片山敏彦教授を描写した件りを読んだとき、わたしもこの先生を知っていると思った。

片山教授は、ベルグソンとその考えを説明するのに、独仏の詩人や哲学者の名まえを数かぎりなくひきあいに出した。その名まえの大部分を私は知らなかったから、彼らとベルグソンとの関係が、どれほど密接なのか、どれほど漠然としたものであったのか、私にはわからなかったが、それらの名まえは、少し甲高くせきこんだ声に乗って、実に甘美に、遠い理想の国の町の名まえのように、私の耳に響いてきた。話す人の愛情ーーともしそれを称ぶとすればーーは、聞いている側にも伝わらずにはいなかったのであろう。異国の文人墨客にそれほどこまやかな愛情を捧げたーーあるいは捧げていると思うことのできた人が、中国の文人に傾倒した江戸時代の儒家の後に、果して他にあったろうか。

(『羊の歌ーわが回想ー』岩波新書)

わたしにとっての奥井先生と駿台は、加藤周一にとっての片山教授と一高のようなものだったのかもしれないと思うことがある。
(散録2024年9月記)


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