ガラス張り時代
昨今は、ガラス張りの時代である。
大都市東京でも、地方の観光スポットでも、「透明」に人は集まる。
渋谷の展望施設は透明なガラスのフェンスだし、熱海や京都でもガラス張りで注目を集める場所がある。
ガラス張りを見つけた瞬間、人々は好奇な目をむけて近づいてしまう。
「みて〜、透けてる〜」
いままで存在していたものや景色が、ガラス張りの向こう側におかれることで違うものに(さらにレベルが上がって)見えてしまう。
なぜか?
私はこう考える。
「物事は見えているようで見えていない」と。
私たちは日常に慣れてしまっている。悪いわけではない。慣れてしまったから、日常なのだ。
当たり前であるが、花は美しいし、猫はかわいいし、ご飯はうまいし、風呂は気持ちよい。
どれも主観的で感覚的なものだが、あながち間違ってはいないだろう。
しかし、当たり前であるからこそ、その感覚にあまり気づいてあげられない。というよりかは、その感覚を大事にしない。
「いなくなってはじめて大切だったと気付いた」などと、元彼、元カノを振り返って考える人は多い。
当たり前が、当たり前でなくなった瞬間に違和感を覚える。あの思い出せないし、いつもはとても大切にしていたとは到底言えないような感覚、どこいった?と。
ガラス張りは、その当たり前を思い出させる。
本当は綺麗だったはずの日常に意識をむけさせる。
見えているようで見えていなかった物事を考えさせる。
では、なぜ人はガラス張りに引き寄せられるのだろうか。
私の思いつきは二つ。
「物事はそれ自体で実は美しいものである」
「人は美しいものを潜在的に求めている」
美しいに限らず、おもしろい、興味深いでもありだと思う。「をかし」な感じ。平安時代から日本人が感じているらしい「をかし」。あとは、「エモい」感じ。
インスタ映えを狙うのも、根底にはこれらの感覚があるのではないだろうか?(他者からの評価も気にするが、評価軸に「エモさ」はありそう)
ガラス張りに話をもどすと、近年はガラス張り時代であるということを述べていた。
それはガラス張りが人気で、人を集めるから、たくさんガラス張りが作られる時代のこと。
透明なガラス張りが、我々の眼と日常の間にあること、これが大きな機能を果たす。
ガラス張りはどんどん増える。「物事は美しい」し、「人は美しいものを見たい」から。
では、ガラス張りがなければ、日常の、物事の「エモさ」に気づけないのか?
いやいやそんなことはない。
我々はガラスのハート(パリンッではないよ)を持っている。
いまもほら、見えてくる。