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風景をつくる手仕事

ほとんどの日本人がそうだと思うけれど、棚田が好きです。

私が育った場所では大きな川沿いにどこまでもまっすぐな車の通れる農道が続いていて、両側には一面に田んぼが続いていました。秋の台風のシーズンにはたまに、あふれそうになった川から越流堤 えつりゅうていを越えて流れてきた泥水をためる遊水池としての役割も果たしていた大きな田んぼは多分、そう古くない時代に整備された農地で、春から秋にかけてトラクターやコンバインが活躍していました。春には水が張られて田植えの頃には初夏の青空を写し、緑色の稲がいつしか黄金色に変わって稲穂が波打つ風景は子どもの頃の私にとってはおなじみののどかな風景であったけれど、あるときそれとは違う田んぼがあるのだと知りました。

確か、子どもの頃のゴールデンウィーク。千葉県の南房総に家族旅行に行った時、内陸部の小さな山の中を通り抜けると、車窓にいびつな形をした一枚一枚違う形の田んぼが並び、そのいくつかで、たくさんの人が集まって田植えをしているようなのが見えました。今にして思えば、「 ゆい」のように、いくつかの家族が集まって順番に田植えをしていたのかもしれません。田植え機ではなく、手でしか植えられないほど小さく、山の縁にそっと並んだ田んぼは、あっという間に車の後ろへ流れて消えてしまったけれど、その時に見た風景はいつまでも消えずに記憶に残りました。

もう少し大きくなって、自転車を輪行して各地の風景を見て回るのが好きだった頃には、日本全国にそんな素敵な棚田が数多く残されていることを知ります。能登半島の白米千枚田 しらよねせんまいだはちょっと観光地化されすぎていて、がっくりしたけれども、お遍路で巡った四国の、特に南の方には石積みの名も知られていないような棚田が多く残されていて、当時はデジカメなどなくフィルムで、撮れる枚数が限られていたにも関わらず嬉しくてたくさんの写真を撮ってしまったり。

旅する中で、私が特に好きなのは大自然そのままの風景ではなく、人の手が加わり作られた自然だと気づきました。

棚田の、地形を可視化するように等高線のように現れるあぜの形はランドアートそのもの。何百年もの時をかけて、人が築いてきた作品でありながら、多くの生き物が生きる環境としてのシステムを保っている風景はいつ見ても感動的です。そしてそんなに棚田を好きだったのも、もしかするとそれがいずれ消えてしまうかもしれない風景だと、だからこそ貴重なのだと思っていたからなのかもしれません。

Batad, Phlippines 等高線のようにあらわれるあぜ

バリ島、フィリピン、ブータン、海外でも見て回るほど棚田が好きだったけれど、今、私の近くに田んぼはほとんどありません。でも、子どもが学校でもらってきた稲の苗を植えて、バケツ苗を育てたりしているうちに、どうしても自分の田んぼが欲しくなって、昨年は1㎡にも満たないながらも、庭の片隅にビニールシートを張って小さな小さな田んぼをつくって収穫までこぎつけました。米づくりをしたいというのは、自分の手で、ほんの少しであっても自分が食べるものを作りたいというだけでなく、一年を通して自分の主食が形作られていく様子を風景として眺めたいという欲求だったのかもしれません。住宅だけが立ち並んでいる都市近郊の住宅地で、本格的に田んぼや畑をすることはもはやとても贅沢なことになってしまいました。

そんな昨年、たまたまキャンプに行きがけに通りがかった伊豆半島で見つけた看板で知った「石部 いしぶの棚田」。どうせ観光化された棚田だろうな、とあまり期待もせずに訪れたそこは、東日本では珍しいという、石積みでしっかりと作られた田んぼが、雲の湧く山から海を見下ろす斜面にひしめく奇跡のように美しい場所でした。

もちろん、このあまりにも急な場所に作られた棚田は、かつてのままにお百姓さんが作っている田んぼではありません。中央を横切る道は舗装されて車が通れる道になっているし、中央には管理棟、水車小屋、トイレなども完備された、ある意味観光化された棚田です。

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石部の棚田 深い山には雲が湧き、遠くに海が見渡せる

黄金色にはまだ早く、でも青々とした葉の中に稲穂が見える田んぼを訪れたときには小雨が降ったり止んだりしていて、湿った空気の中、ちろちろとあちこちの水路で水が滝のように流れていました。よく見ると、田んぼの一枚一枚につけられたオーナーを示す名札。

一度は耕作放棄されて荒れ果てていた場所を、このまま朽ちさせてはいけないと、地元の方や全国の応援者の力で、少しづつ復元、よみがえった風景なのだそうです。そのようにして蘇った棚田は全国各地にあるそうですが、そう思って風景を守ってくれた人々がそこにいたことが本当にうれしい。そう、私がかつて、観光地化されていてがっかりしたという白米千枚田 しらよねせんまいだもそういう誰かの思いによって守られた棚田に違いありません。

石部の棚田 道に沿って走る水路は小川のよう

調べてみるとこの石部 いしぶの棚田は、江戸時代にも棚田の上にある山が崩落し、山津波によって棚田の多くが失われたのち、地元の百姓が蘇らせた棚田なのだそうで、だからこそ崖崩れにも負けないがっちりした石積みでつくられていて、そういう意味でもとても貴重な棚田だと思います。

長い時を経て人々が作り上げてきた風景をなくすことは簡単です。でも数百年に渡って何世代もの人々の手で作り上げてきた風景には、計り知れない価値があります。

  • 手仕事の美しさで心和ませてくれること

  • 自分の祖先やかつての人々とつながっていると思わせてくれること

  • 多くの生き物や植物が生息する多様な環境を提供してくれること

  • 日頃のメンテナンスが必要であるからこそ大規模な災害を起こりにくくしてくれること

  • 何より地形や風土にぴったりとはまった無駄のないデザインであること。

つまり、手間隙はかかっても、かけるエネルギーや資源が最小限で環境にやさしい。そういう風に、多くの人々の手仕事の積み重ねによってできた風景こそが、誰にとっても美しい理想的な風景なのだと思っています。

そしてこれから先は、食べ物を生み出す土地が住む場所の近くにあることが、今まで以上に重要になるのではないか、ということは多くの人が感じているのではないでしょうか。風景という価値だけでなく、食糧生産という意味でも、機械の手に頼らずに人の力だけで何百年も稲を作り続けることのできる棚田という遺産をつぶしてしまわなくてよかったと思える日がすぐそこまで来ているような気がします。

今の私には庭の小さな稲を育てることや、誰かが日々棚田や田んぼを管理してくれていることに感謝しながらたくさんお米を食べて、こんな絵地図や記事を書くことくらいしかできないけれど、今よりもっと多くの人がそんな風景の価値に気づいて、手仕事を紡ぐような作業に携わり、美しい風景がいつまでも続いてくれますように。それは手間を惜しまずにひと鉢の野菜を育てたり、道端の草を抜いたり、排水溝の掃除をしたり、そんな小さなことの積み重ねのような気がしています。

石部の棚田の絵地図 ©︎さんぽ絵ずし




#未来に残したい風景  にてこの投稿を入賞作品に選んでいただきました!
ずっと思い続けてきたことを書いた投稿だったので、選んでいただいてうれしいです。読んでいただいた皆さま、スキしていただいたみなさまありがとうございました!


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