男はめそめそしてはいけないのだ
大人の男は泣かない
我が家が購読している地方新聞にこんな記事があった。
「戦後74年、今語らねば」シリーズ11月15日版。小○きよさん(85)の語る戦争の思い出。一家の長兄が東大法学部勉学中に海軍へ入隊、主計見習尉官となった。その後、昭和19年11月乗艦していた軽巡「五十鈴」に魚雷が命中、戦死してしまった。終戦後の昭和21年に執り行った葬儀の様子を、当時10才くらいだったきよさんが見て、語った話。
「遺品の風呂敷だけが帰ってきた。石棺に学生帽と一緒に納めた。46年10月、葬儀で挨拶する父は涙声だった。びっくりした。男の人って泣くんだ、と初めて知った」
戦前の父親像が如実に現れていて私は感心したのである。つまり、少女にとって大人の男の人は泣かないものだ、と思っていたと言うことだ。そんな記事だった。
一方、私はすぐに泣く
先日、それは仕事中の事、何の前後もなく、ふと思い出した情景があった。
それは、4才になる私の孫。彼がまだ生まれて間もない赤ん坊だった頃の、ほのぼのとした情景。
おっぱいをあげようと、母、つまり私の娘が孫を抱き寄せる。
私は娘のななめ後ろ、背中からのぞき込むようにして孫をみている。娘の胸に半分埋まるようにして、赤ん坊の孫は一生懸命おっぱいを吸っているのがわかる。
「かわいいなあ」思わず言葉がでる。
必死におっぱいを飲む孫も、愛おしそうにおっぱいをあげる娘も、そんな二人をみて相好を崩す私も、三人が十分に幸せなひととき、そんな情景だった。
「ん?」
ややあって、私は気づいた。たった今浮かんだ自分の頭の中にあるこの情景、なんか違う。ちょっとちがうぞ。
私は再度、頭の中の情景を思い起こしてみた。
するとそれは、実はおっぱいをあげているのは娘ではなくて、死んだ前の妻のYで、そのおっぱいを飲んでいたのは孫ではなく赤ん坊だった頃の娘だったのだ。つまり、私は世代を間違えて、赤ん坊の娘におっぱいをあげる先妻の様子を重ねて描き出して、先妻、娘、孫の勘違いをしていたのだった。
「あっ、しまった」
正直、驚いてしまった。
遠い昔、若かった頃、先妻に赤ん坊が出来、幸せの絶頂にいた頃の強い印象として、頭の中に忘れ潮のように残っていた記憶が、同じ構図のまま突如として思い出されてしまったのだ。
「ああ」
「ああ、そう言うことか」
その時、すでに泣いてしまっていた。職場のなか、勤務中に、めそめそと。慌てて下を向き、目を手の甲でゴシゴシこすってごまかして、何とか気持ちを落ち着かせたのだが、
子の頭をなで幸せそうな妻と赤ん坊の娘、
子の頭をなで幸せそうな娘と赤ん坊の孫、
こんな他愛もない記憶違いだったのだが、でもさすがにこれは、辛く悲しかった。
そうして、でもこれはnote の記事にして、みんなに見てもらおう、そうとも思った。
ところがこうして文章化してみると、己のなんと女々しいことか!おい自分!うじうじしてんじゃねえ!
あ、うにさんの記事から
では、もう一つを紹介しよう。「あ、うに」さんのファンなので彼女の記事は必ず読んでいるが、中でも、フィンランドのドキュメンタリー映画を観たという記事が印象に残っている。
記事のなかで、あ、うにさんはリンクを貼ってくれていて、そこでは監督インタビューが紹介されている。引用したい。
「女性は、たとえばカフェでも本音トークができますが、(特にフィンランド人の)男性はまずしません。身の上話は誰だって持っているんだろうけど、表に出さないで抱え込んでしまっている男性が多いと思います。“男は重い話はしゃべらないのが当たり前”という暗黙の了解を、打開したいと思ってこの映画を撮りました。」
弱い自分になれるところとして
そう、男は泣いてはいけないのだ。よっぽどのことがない限り、決してめそめそうじうじとして泣いてはいけないのである。人前で重い話しはしないのだ。
男もそれはそれで結構つらいのだ。
そう思うと、私がnoteを始めた頃に書き綴っていた記事「先妻Yを思う」は、今読むに、めそめそオロオロし、うじうじとした自分をさらけ出していて、余りに軽佻浮薄にして女々しい自分がそこにいて、まったくもって恥ずかしい極みなのだ。
でも、
でも、
noteというこの媒体が絶対必要と言う意味ではないものの、私にとっては、こうして「書き、披瀝する行為」こそが、あ、うにさん紹介のサウナ、それなのかもしれない。
うーん、ちょっと気持ちも落ち着いてきたぞ。
でも、でも、もう泣かないよ。だって僕、男の子だからね!(おじいちゃんだけど)